フォーラム随想脳は現代の環境に適応できている?
2024年11月20日グローバルネット2024年11月号
長崎大学大学院プラネタリーヘルス学環長
熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授
渡辺 知保(わたなべ ちほ)
短距離走のフライングとは、「用意」で静止した後、号砲がなる前に飛び出してしまうことだと思っていたら、号砲後0.1秒以内に飛び出してもフライングになるという。号砲を「聞いて」から足にダッシュ!という指令が伝わるには0.1秒以上かかるという生理学的証拠に基づいているらしい。実際、千分の一秒早く出て失格になった例もある。そんな短い時間は人間が知覚できないので、スタート板に付けられたセンサーが足裏からかかる圧力を感知して判断するそうだが、人間が区別できない脳の(神経伝達の)生理的限界を最先端の技術が判断して、人間のマクロな運命(優勝か失格か!)に影響を及ぼすのはいかにも現代らしい。私のように「いい加減」を好む人間は、ヤマ勘も運動能力のうちと思ってしまうのだが。
ちなみに人間が何を「同時」と見なすかも感覚刺激の種類によって異なるという研究もあり、そこで用いた実験条件では0.1秒程度の違いが観察されている。
古屋晋一さんという医師でピアニストの人が書いた本に詳しく解説されている局所性ジストニアという病気は、速くて正確な運動の練習を続けるうちにそれができなくなる。楽器奏者やアスリートに見られるという。原因は明確でないが、患者には、脳の特定の部位が大きくなったり、役割分担している脳の小さな領域同士の境界が不明瞭になるという変化が見られるらしい。古谷さんの本には1分間の打鍵数(つまり指の運動)が1,800に達するクラシック曲が紹介されているが、有名な「熊蜂の飛行」のテンポは1分間に♩(四分音符)=160、メロディーは16分音符で1分間に640音、ジャズでは速くて有名な「チェロキー」が1分間に♩=300程度。メロディーはのんびりだが、アドリブは大体8分音符で演る人が多く、やはり「熊蜂」と同じくらい。これらの全力疾走曲で指の運動を正確に制御することは、脳にとっては大変な過剰労働なのだろう。熟練を目指した練習で脳が「肥大」することで、逆に機能が劣化するということらしい。局所性ジストニアがどれくらい昔から存在していたのか私は知らないが、特殊な鍛錬や運動が要求されるようになって出現した「現代的」社会環境の中で現れた疾患なのだろう。
都会地域とそれ以外の地域の住人では、行動の大枠を決める「メンタル・モデル」(いわゆるマインドセットに近い)が異なるという、アメリカでの心理疫学的研究がある。より都市化された居住環境に住む人ほど思考が直線的で、全体としての多様性が少なく(乱暴に言えば個性的でない)、環境への配慮行動も減少するという(悪いことだらけ!)。都会居住や都会育ちの人は、ストレスに対する脳の(否定的感情と関連する部位の)反応が敏感であるというMRIを用いた研究もある。都市に住むことの何が脳の活動を過敏にしているのかまでは明らかでないが、都市の社会的ストレスにさらされることと関係があるのではと研究者たちは考えている。
「現代社会」は、過去からの蓄積の上に現代の人々の行動・活動によって作り上げられた環境だ。音楽やスポーツの専門家の存在は現代社会特有のものでないにしても、現代に至って高度に専門化され、技術の精緻化も進んできたことは間違いない。都市の発祥は7~8千年くらい前にさかのぼるが、自然の要素をほとんど含まず、生活のリズムも速いような都市は、現代の産物だろう。現代社会の環境は、脳にさまざまな形でチャレンジしていて、脳の対応の限界が少し見えているのかもしれない。
私も最近ピアノの運指が鈍くなったと感じていたので、古屋さんの本を読んで、こりゃ局所性ジストニアかと思ったのだが(そんなに練習をしているわけでもないのに)、この病気はクラシックに特有で「ジャズの演奏家にはほとんど見られない」としっかり書いてあった。単なる加齢現象のようだ。