日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第91回 三面川のサケを愛おしむ努力と伝統―新潟県・村上

2024年10月17日グローバルネット2024年10月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

新潟県はおいしいコメと日本海の豊かな海の幸がある。7月下旬、県北部の村上市から佐渡を含んで糸魚川市まで訪ねた(連載4回)。新潟市から車で1時間余、三面川みおもてがわのサケ漁で知られる村上市に着いた。江戸時代に世界で初めて成功したサケ(シロサケ)の自然ふ化増殖は、現在の人工ふ化放流事業につながり、厳しい気候風土と人々のサケへの愛情が多彩なサケ料理を生んでいた。

●平安時代に朝廷へ献上

村上市街地の北側を流れる三面川は二級河川で長さ41km。朝日連峰を源流とする。「日本最初の鮭の博物館」であるイヨボヤ会館の館長の奥村芳人さん、三面川の漁業権を持つ三面川鮭産漁業協同組合の代表理事組合長、佐藤克雄さんから話を聞いた。

イヨボヤ会館

地元の言葉でイヨボヤと呼ばれるサケ。平安時代の延喜式えんぎしきに朝廷へ献上された記録が残るほど歴史が古い。

日本の河川ではサケ漁に許可が必要であり、三面川のサケ漁は人工増殖用の卵確保が目的だ。漁期は10月1日から翌年の1月末まで。漁協が河口から2km上流に川幅いっぱいにウライと呼ばれる柵を設置し、サケを一括採捕する。卵を1,000万粒確保すると、以降は組合員が特別採捕している。

他に細長い小舟(7m×85cm)2隻の間に張った網でサケを捕獲する伝統的な居繰り網漁や、カギ針で引っ掛けるテンカラ漁もある。漁の様子は川岸から見学可能だ。ルアー釣り客による有料の有効利用調査では雄1尾を除き漁協が回収する。

サケ漁の本格的な記録が出てくるのは江戸時代中期。村上藩は三面川で地引き網などによる捕獲をしていたが漁獲が減少。藩士の青砥武平治あおとぶへいじ(1713-88)が資源回復に取り組んだ。

青砥は川漁師から情報収集をし、母川回帰を解明した。「背びれに絹の標識を付けて放流し、4年後に遡上を確認したと伝え聞いています」と佐藤さん。これによって「種川の制」を定め、禁漁を含む徹底した対策を実施した。子どもが稚魚を捕まえても厳しく取り締まった。三面川のバイパスとして種川たねがわ(長さ約800m)を造成し、そこで産卵させて春に稚魚を本流に戻すことにした。この自然ふ化増殖の成功によって遡上数を復活、村上藩の財政にも寄与した。

ふと、人間にだって生まれ育った場所への郷愁があるじゃないか、と思った。歌の世界では『ふるさと』(五木ひろし)『カントリー・ロード』(ジョン・デンバー)など枚挙にいとまがない。

●旧士族が漁業権を得る

「種川の制」は、庄内藩(山形県)の月光川がっこうがわや石狩川支流などで導入された。保護策を伴う村上藩のサケ漁は、上流の天領との争いでも幕府評定所に正当性が認められた。明治になって人工孵化増殖が普及するまで約100年間、村上方式が日本のサケ増殖の主流だった。

明治維新後は旧士族の「村上鮭産育養所」が漁業権を得た。後に「水産業の父」と呼ばれる関沢明清が1876 (明治9)年に米国からマスの人工ふ化法を日本に伝えると、2年後には村上にサケの大規模な人工ふ化場が設置された。自然ふ化と二本立てで各地に受精卵を供給したり、技術指導したりして指導的な役割を果たした。だが、経営が停滞し昭和に入ると漁獲の減少が顕著になった。

太平洋戦争後の1949年、育養所の解散で漁業権が地域住民に開放された。だが、乱獲のために絶滅寸前に。63年に三つの漁協を統合して現在の三面川鮭産漁協が誕生すると、一括採捕による採卵放流事業で再び資源を回復させた。77年には、海と川の協力組織「三面川サケ増殖推進協議会」が発足、河口付近の定置網間の距離を広げるなど協力を得ることができた。

イヨボヤ会館では、サケ漁の資料や漁具などの展示のほか、地下観察室から種川の水中を側面から見た。サケの産卵シーンを間近に観察できる感動スポットだ。次に見学した漁協の第三ふ化場は4ヵ月かけて体長7cm、重さ1gまで育てて放流する施設。サクラマスやヤマメなども養殖している。観光客に採卵後のサケや加工品などを販売する施設を整備していた。

地下観察窓から見る種川の側面

近年全国的なサケの不漁が続いており、村上も例外ではない。4年前に800万尾を放流したが、昨年は7,260尾。加工用には北海道産も使われた。奥村さんも佐藤さんも、長い歴史の中に豊漁と不漁が繰り返されてきたことを振り返りながら「再び多くのサケが遡上する光景を見たい」と願っている。

川や上流の森林などサケのための自然環境はどうか。三面川河口付近では「魚つき保安林」が大切にされ、地域ぐるみでブナ林の保全整備をする「さけの森林(もり)づくり」も続く。過去にスーパー林道建設に伴うブナ林の伐採計画を阻止したこともあるという。だが一方で、上流にはダムが建設され、河川改修も続く。『三面川サケ物語』(須藤和夫著)は、三面川とつながっていた村上城の堀の消失を惜しむ。堀の水面面積が十数ha、サケの稚魚が水生昆虫などを餌にして育つ大切な場所だった。

●地元の家庭料理を伝承

村上の代表的な郷土料理にサケの塩引きがある。サケの内臓を取り出し、塩を擦り込んで湿った村上特有の北風で乾燥させる。これによって熟成が進み、他にない独自のうま味が生まれる。村上では年末年始に欠かせない味覚だ。

100種類以上あるという村上のサケ料理を知るために訪れたのは「千年鮭きっかわ」。店には干したサケが数百尾もつり下げられて圧巻の光景だ。頭を下にし、腹の一部の皮がつながっている。切腹を連想させる切り方を避けるためとか。

「千年鮭きっかわ」店内につるされたサケ

代表取締役社長でサケ料理研究家の吉川真嗣さんに会った。江戸時代から続く造り酒屋十四代目の父が村上の「鮭食文化」の伝統を守るために、サケの加工品の製造を始めた。腎臓、白子、肝臓、胃袋、心臓(ドンビコ)などすべての部分を利用する。化学調味料は一切使用しない。「村上にたくさんサケ料理が伝わっているのは、サケに対する人々の感謝の気持ちがあるからでしょう」と吉川さん。他に経営するサケ料理専門店の井筒屋ではフルコースのサケ料理が味わえる。

塩引き鮭をつるし続けると乾きが進む。春の風、梅雨の湿り気、秋雨が完熟を進める。カビが付く度に水で洗い落し、1年かけて出来上がるのが「鮭の酒びたし」。薄く切って酒をかけて食べる珍味中の珍味だ。

吉川さんが最近喜んだのは、昨年5月に東京で開かれた「未来を拓くニッポン・デザイン展」(日本広告制作協会主催)できっかわの塩引き鮭が高く評価されたことだ。自然と共生するフードデザインの姿として、SDGsの好例とされた。

村上には店付きの民家である町屋が多く残る。きっかわや井筒屋の建物も国登録文化財の町屋だ。吉川さんらは建物だけでなく、人形や春の庭、びょうぶなど村上の人々が育んできた伝統文化を積極的に公開し、その中にある普遍の魅力を発信している。

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