フォーラム随想心の旅路
2024年10月17日グローバルネット2024年10月号
(一財)地球・人間環境フォーラム 理事長
炭谷 茂(すみたに しげる)
同窓会は、ほとんど参加しない。昔を懐かしむ気持ちは起きないし、再会したい人もいない。
でも偶然小・中学校の同級生に会うことがある。60年以上の時が流れているのに、昔の容貌が残り、体の動き方や話し方が変わらない人がいる。慎重な性格は変わっておらず、自分の体のあちこちの不調を述べる。
一方、昔と本当に大きく変化し、名前を言われても、すぐに昔の姿が思い出せない人もいる。特に女性に多い。
学校時代は特に秀でていたわけではないが、どこかで人一倍努力したのだろうか、海外でも活躍し、メディアにも取り上げられるような著名人になった女性がいる。そして人が変わったようにセンス抜群の美人になっていた。同級生の間では、称賛よりも嫉妬の目で見られる。人間の寂しい性のためだろうか。
口数の少ない目立たなかった少女が、荒々しい男性の従業員を使い、小さな会社の経営をするたくましい女性になったのもびっくりした。全く別人かと思った。夫に先立たれ、生活のために会社の経営を引き受けざるを得なかったらしい。人は、環境によって大きく変化し、成長するものだ。
私も環境にずいぶん影響されながら、生きてきた。それに応じて心も大きく変化してきた。
10代を過ぎたころから家業が傾き始めた。子どもの目にも十分にわかった。本などは買ってもらえなくなり、デパートの食堂での食事も消えた。
父や母は、金策のため信用金庫や親戚を駆けずり回る日々だった。店を閉じ、自宅が他人の手に渡ったのは、17歳の時だった。貧困の苦しさを実感した。経済的な苦しさよりも遠慮のない貧困者に対する差別が痛かった。
特別な才能や能力がない私は、社会を生き抜くためには努力と忍耐しかないため、ひたむきに学業に集中したのが、10代の私だった。努力だけが上滑りする非効率的な方法だった。しかし、「努力をすれば何とか生きられる」と信じていた。
他人から差別的言辞を受けることも度々あった。相手は全く覚えてはいないだろうが、被害を受けた方は、生涯忘れない。じっと我慢するのが最善の防御方法だった。忍耐心は強くなった。人の痛みを知るだけに、ハラスメントの加害者にはなれない。
介護施設で暮らしていた母は、「昔となあんも変わらん」と病床で私のことを妻にぽつりと言った。母は、ひたむきに努力する私をしっかりと見守っていたのだ。
世の中は、努力と忍耐だけでは生きられない。30代の終わりころから仕事の面で限界を感じ始めた。役所でも左遷に次ぐ左遷で、陰鬱な毎日だった。
哲学書、宗教書や精神医学の専門書などを読んだが、打開する方法は、見出せなかった。高校時代の愛読書『ジャン・クリストフ』を再読しても無駄だった。
たまたま東京都港区の区立図書館で明治から昭和にかけて活躍した、中村天風が書いた分厚い本を借りて読んでみた。人の生き方を自分の経験に基づき述べた本である。迷うよりも積極的な態度で生きるのが最善だと述べてあった。単純なことだったが、当時の迷いを消してくれるように感じた。仕事にも良い影響を与えた。
60歳を過ぎ、年齢を重ねるにつれ、考え方は、さらに変化してきた。社会や人間について俯瞰できるようになったからだろう。
40歳頃までの努力や忍耐だけの生き方、40歳頃からこれに明るく積極的に生きていく生き方が加わった。さらに60歳頃からは、人への思いやりが強くなってきた。大学生時代から社会的弱者と共に活動してきたことが、幾多の心の変遷を経て、現在の心を形成されてきたのだろうか。
人間の心は、経験や環境によって影響され、成長する。心の旅路の到着点は、今もわからない。