21世紀の新環境政策論 人間と地球のための持続可能な経済とは第67回 都市化の中での人と自然との距離感について考える

2024年09月18日グローバルネット2024年9月号

武蔵野大学名誉教授
元環境省職員
一方井 誠治(いっかたい せいじ)

地球環境問題解決の難しさ

これまで、私が行ってきた大学生や高校生向けの環境問題に関する一連の講義を始める際、まずは「なぜ、環境問題はなかなか解決しないのだろうか」という話をしてきました。より正確に言えば、日本が経験したかつての激甚公害については、官民の努力により、曲がりなりにも克服してきたものの、その後明らかになってきた気候変動問題や生物多様性の減少を含む自然環境の劣化―その帰結としての人類文明の持続可能性の低下は、その解決にいまだ目途がついているとは言えない状況が続いています。

もとより、それについては、経済的・技術的観点をはじめ、いくつもの要因が考えられますが、私自身はいまだ確たる結論を見いだせていない状況です。ただ、そのなかで、私は自分の経験にも照らして、現代社会における私たち人間の自然環境に対する向き合い方の変化が、問題解決の難しさの一つの大きな要素ではないかと考えるようになってきました。

最近気になった二つの事例

私の住む地元(東京23区内西部)では、自治体と住民が10年間の契約を結び、自宅敷地を「街かどの森」として地元の人々に解放し、残された木々などに親しんでもらおうという制度があります。たまたま私の家からほど近いお宅が今年の初めにその制度の適用となったのですが、自治体に管理が移管されたタイミングで、気が付くと、かねてより保護樹木に指定され、私の家からも昔から良く見える、高さ30メートルに及ぼうかという大きなケヤキの木が、私の感覚では見るも無残に強剪定され、二回りも三回りも小さくなっていたのです。

私は驚いて、同制度を管轄する自治体の担当者に連絡を取り、なぜ、あれほどまで枝を下ろす必要があったのか尋ねました。担当者の回答は、敷地の端にそびえているケヤキの枝が道路の反対側の電線に掛かっていたからということでした。しかしながら、剪定は電線側の枝のみならず、敷地内の枝全般に及んでいて、昔から親しまれてきた「箒を逆さにしたような」シルエットは損なわれてしまった状況でした。

私自身は、安全性の観点からの、街中の電線に掛かるような大木の枝や、劣化し落下の恐れのある枝の除去などに反対するものではありません。しかしながら、今回の処置は、電線への配慮を超えた過剰な対応に思えてなりませんでした。私は担当者に「街かどの森」に指定された敷地内の木の管理方針についてのマニュアルがあるのか聞きましたが、「そのようなものは作成していない」とのことで、実際にはその時々の担当者と剪定業者の判断でケースバイケースの措置をとっているのが実態のようでした。

以上は、地元自治体の身近な自然への対応の事例ですが、もう一つは、自分自身の家の庭の管理についての事例です。70年前に両親が東京の郊外にささやかな土地を購入し小さな家を建てた当時のわが家の庭は、隣の敷地との境界沿いに小さなヒマラヤスギを4、5本植えたのみで、その他は一面の芝生でした。しかしながらいつしかその他の木々が増え、小さなクリスマスツリーとして購入しその後敷地の際に植えたモミの木は優にとなりの電柱を超えるまでになりました。

15年ほど前までは母がまだ元気で年に2回定期的に植木屋さんを頼んでいたので、それなりによく管理された庭だったのですが、役割が変わり私が中心になって庭の世話をするに至り、次第に庭がジャングル化(?)していきました。というのも、私自身はヒマラヤスギや生垣を除き、モミの木を含め植木を強剪定するのを好まず、芝生の雑草もとらずその花を楽しみ、一方で、雨水利用の小さな池を作ったりしてきました。

結果、池では毎年カエルが卵を産み、豆粒のようなカエルが庭に散り、トカゲやヤモリはもとより、時にはしばらく見なかった臆病な小さな蛇が顔を出すような庭になってきました。ただし、道路沿いの生垣は、はみ出さないようにこまめに剪定し、また臨家の敷地ぎりぎりに生えているモミの木とキンモクセイについては、できるだけ迷惑をかけないよう植木屋さんに最低限の剪定をお願いするとともに、それでもはみ出している枝については時あるごとに隣家の方に迷惑を謝するとともにありがたくも快い了解をいただいてきました。

都会における自然とは何か

最初の事例で気になったのは、都会の住宅地における大木に対する近隣住民の受け止め方です。近隣といっても、木の直下で落ち葉の掃除もするお宅と、私のように直接はその負担のない住民もいます。私は強剪定された直後にその木の2軒先の道路で掃除をされていた、ややお歳を召した住民の方に「枝切っちゃいましたね」とやや誘導尋問気味に声をお掛けしたところ、その方から、意外にも「そうなの。がっかりしちゃった」とのストレートな返事が返ってきました。

確かに自分の経験からも落ち葉による日々の道路掃除は結構な作業であり、それを単純な負担と感じるか季節も感じる日常の営みと感じるかは人それぞれです。

実は、街かどの森の担当者は、抗議に近い私の問い合わせに応じて現地に来てくれて、丁寧に話を聞き、質問にも答えてくれたのですが、そこでわかったのは、このような大木について迷惑に思う住民の声もそれなりにあり、一方で、私のように枝の剪定で文句を言う住民もいるということで、その間でその扱いを明確には決めかねている行政のスタンスでした。

さて、我が家の庭に話を戻し、ここでの問題点を整理すると以下のようになります。第一に、都会の狭い住宅敷地内の庭でより自然の要素を求めると、それはジャングル化につながりがちなことです。また、それを必ずしも快く思わない近隣の方もおられる可能性があることです。第二に、庭木を毎年同じような形で管理しようと思うと、自分で対応するにしても、人に頼むにしても結構な手間と費用が掛かることです。

西田正憲氏の『自然の風景論』(清水弘文堂書房、2011年)では、里山・里地・里海について、「山に抱かれ、海に囲まれてきた日本人にとっては、この境界領域の持続する風景は、原風景であり、故郷の風景であった」、「奥の山や沖の海でない人々の生活空間であり、地域の人々の固有な関わりによって、一方的な収奪ではなく持続的な共生が実践されてきた山辺と海辺の自然地域である」と記述されています。

日本の現代社会はかつての農業中心の社会から、食料を含めた生活物資を多く輸入に頼る社会になってきています。人々も都市居住が一般的になってきています。その帰結として、その昔、経済のサイクルに組み込まれていた里地・里山の風景は急速に失われてきており、今や都会に住む多くの現代人の故郷の風景としての日常の生活空間における自然は、街路樹や付近の公園、生産緑地、そして個人の庭における庭木となってきているように思います。

都市における自然と人間の距離感の変化

もとより私も含め、現代人は本当のジャングルでは暮らせません。しかしながら一方で、単に花がきれいに咲いて一面の芝生が広がっているような都会の公園のような自然だけでは人類の生存はおぼつかないことは明らかです。

そのことは承知の上で、奥の山や沖の海を地球環境のベースとして保全し尊重しつつ、同時に、私たちが暮らす身近な生活空間における自然について関心を持ち、『自然の風景論』でいう「持続的な共生」を現代人なりに維持していくことは、今後の地球環境の保全にとっても大事なポイントになるのではないかと感じています。カエルやトカゲどころか、落ち葉や雑草をも不快なものとして身の回りから排除するような生活スタイルが当たり前になり、エアコンの効いた室内でスマホやパソコンの画面に見入るような生活では、地球環境の保全を願う心からのインセンティブは生まれてこないのではないか、と自戒を込めて危惧します。もちろん、私の個人的な体験や感覚を安易に一般化することは避けなければいけませんが、あえて読者の皆様のご意見ご批判を仰ぐ次第です。

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