日本の沿岸を歩く海幸と人と環境と第90回 来島海峡周辺 多彩な魚も白砂青松も―愛媛県・今治

2024年09月18日グローバルネット2024年9月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

今治市と瀬戸内海の大島を隔てる来島くるしま海峡は日本三大急潮(他は鳴門海峡、関門海峡)の一つ。潮流10ノット(時速約18km)の海の難所であり、海難事故のリスクが高い。かつて操船技術に優れた来島村上水軍の活躍の場でもあった。周辺海域は古くから好漁場で、白砂青松の浜や伝統文化が残っている。海峡をまたぐ来島海峡大橋(全長4,105m)ができて四半世紀。本州と橋でつながった海峡周辺の表情を見ると、本州にはない四国の魅力は健在のようだ。

●活気ある魚市場の競り

3月下旬の午前6時前、来島海峡大橋から13kmほど南東にある愛媛県漁業協同組合桜井支所に到着した。燧灘ひうちなだ沿いの今治市桜井地区。軽トラックなどが忙しそうに魚を魚市場に運び込んでいた。

しばらくすると競りが始まった。前日と当日は天候に恵まれ上々の漁獲があった。持ち込まれた魚はマダイ、レンチョウ(シタビラメ)、シロエビ、チヌ(クロダイ)、ヒラメ、メコチ、イイダコ、タイラギ、コウイカ、ガザミ(ワタリガニ)、貝類など多彩な顔触れ。

100人ほどが参加し、市場の中央の台の上に魚の入ったトレーが出されると、仲買人が競り落としていく。漁協の日浅清人さんと記録、「魚出うおだし」の3人が一段高い場所に座り、大きな声で競りを進めた。魚が跳ね、競り値の掛け声が小気味よい。正直、言葉の意味は分からなかったが…。珍しい光景だった。後で日浅さんは「このようなやり方は他に知りません。地域の伝統として培われてきたのでしょう」と教えてくれた。

桜井支所は小型底引き網の漁船が約30隻、組合員108人(うち正組合員27人)の規模。年間1,000tの水揚げがある。

桜井支所での朝競り

今治市南部にある桜井支所は、浅海底の燧灘での底引き網や流し網漁などが中心。一方、来島海峡大橋に近い北東部の支部では一本釣りが古くから盛んだ。

桜井支所では、地先の海を守るための資源保護として抱卵ガザミの放流やヒジキの試験養殖に取り組んでいるほか、藻場の保全や海岸清掃に努めている。漁協職員や漁業者、地区有志などで6年前に設立した「桜井地区海を守る会」がアマモの移植や播種、海岸清掃などに力を入れる。地元中学生を対象にしたアマモ環境学習を開催し、アサリや漂着物の調査も続けるなど海への愛着を感じさせる。

日浅さんは「高齢化などで組合員の減少もありますが、漁業者の収入の安定を図って地域を元気にしたい」と話す。漁獲魚の加工場や食堂かレストランのような施設の新設を望んでいる。

桜井地区の誇りとして、日浅さんは歴史と伝統文化を紹介した。桜井支所近くの志島ヶ原ししまがはらは国の名勝地で11haの広大な敷地に3,000本の黒松があり、浜辺は日本の白砂青松100選に選ばれた。ここにある綱敷天満つなしきてんまん神社は菅原道真が主祭神で、合格祈願や梅の名所として知られる。神社には「わら舟流し」をする「宮島さん」という伝統行事があり、地域の子どもたちの健やかな成長を願う。今治地方に伝わる「獅子じし」もある。これは人の上に人が立って、時には獅子頭をかぶって舞う独特の行事。綱敷天満神社の境内を歩くと、古い灯籠や碑などがいくつもあり、伝統や歴史が一体となって落ち着いた雰囲気が感じられる。

江戸時代に天領だった桜井は漁業だけでなく、廻船業、漆器なども発展した。桜井漆器は紀州(和歌山県)の黒江塗に原木を販売し、その製品を船で販売する椀舟わんぶね行商で知られる。クレジットカードの先駆けとなる割賦(月賦)販売はここから始まった。伊予桜井漆器会館には歴史解説とともに新旧併せた多くの製品が展示されていた。

●全長8kmの美しい砂浜

織田ヶ浜

桜井支所では、小澤潤さんを紹介してもらった。今治市環境パートナーシップ会議会長やNPO法人「森からつづく道」副理事長などを務めている。小澤さんは付近の砂浜海岸の説明を始めた。南から桜井海岸、志島ケ原、唐子からこ浜、織田ヶ浜と続く約8㎞。実際に織田ヶ浜と唐子浜に案内してもらった。双方とも人工の防波ブロックがなく日本の原風景のような美しい砂浜で、夏には海水浴客でにぎわう。

織田ヶ浜の近くに住んでいる小澤さんは「浜にはスナメリの死骸が打ち上がることもあるし、キク科のハマニガナなど希少な海浜植物がありますよ」と、海と接する砂浜の生態系の魅力を語った。織田ヶ浜だけに生えているウンラン(県条例で特定希少野生動植物に指定)の保護区域も教えてくれた。空からヒバリの声が聞こえると、「シロチドリの産卵も観察できますよ」と、海辺の生き物たちへ愛着は尽きない。 

来島海峡の速い潮流は海底や岸の砂を動かすので、微妙で複雑な周辺の自然がある。小澤さんは「アマモは増加傾向にあり、磯焼けも改善の兆候が見られるのですが、マガキが姿を消すなど生物相の変化が気がかりです」と話す。流れ込む河川の影響も考慮して、漁協や住民などが広範に連携しながら海や海岸の自然を守ることが重要だと考えている。

織田ヶ浜は住民が埋め立て反対を求めて最高裁まで争った歴史がある。「自然保護の天王山」として注目されたが、1993年に敗訴。「地球の楽園」とまで表現された浜は埋め立てられ、元の半分に。埋め立て地に建つ食品メーカーのビルが見える。環境に対する意識が高まった現在では、同様の埋め立ては無理だろう。

「二人歩いた織田ヶ浜」という歌詞の一節が、松山市出身のシンガーソングライター、レーモンド松屋が歌う『来島海峡』にある。砂浜を奪われた人々の悔恨も込められているかもしれない。

●日露戦争の記憶を今に

小澤さんと別れると、来島海峡大橋に向かって北上。藤堂高虎とうどうたかとらが築いた今治城を眺めると、みなと交流センター「はーばりー」、多くの小型底引き網漁船が係留中の今治漁港を通り過ぎた。

来島海峡大橋の付け根にある波止浜はしはまから小型船で来島、小島おしまに渡った。造船所が迫る水域を進むと5分で来島(周囲850m)に着いた。急流に守られる天然の要塞は、15世紀中頃から約160年6代にわたって来島村上氏の居城だった。天守跡に上ると、白く泡立つ来島海峡の西水道を船が通過していた。

次の小島は周囲3㎞。島には1902(明治35)年に帝政ロシアの侵攻に備えて築かれた芸予要塞跡がある。巨大な28cm榴弾砲りゅうだんほう6門を設置し、2年後に勃発した日露戦争では、うち2門が旅順要塞攻撃に使われたという。現在は港近くに据えられたレプリカが来島海峡をにらんでいる。松山で生まれた秋山兄弟が活躍する司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の世界がよみがえるようだ。

今治に戻り、来島海峡展望館から歩いて来島海峡大橋(3連つり橋)の第三大橋へ。30分で中央点に到達、高さ約70mから海峡を見下ろし、織田ヶ浜の方向へも目を遣った。三次元の全方位に視界が広がり、空と海に自然も歴史も混然と溶け込むようだ。圧巻の体験でも歩行者は無料。ずいぶん得した気分になった。

来島から望む来島海峡大橋

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