日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第89回 広大な干潟と別子銅山の「自然の重さ」―愛媛県 西条・新居浜

2024年08月20日グローバルネット2024年8月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

愛媛県東予地方の凹部になっている沿岸は、製紙、非鉄金属、化学、機械などが集積する四国最大の臨海工業地帯である。東の四国中央市は紙製品出荷額日本一を誇り、新居浜市は別子銅山が原動力となって住友グループの企業城下町となっている。一帯の燧灘ひうちなだ(瀬戸内海)沿岸に広がる工場群とは対照的に、西の西条市の加茂川と中山川の河口に四国最大の干潟が残っている。広さは約383haで東京ドーム83個分にもなる。

加茂川河口に広がる干潟

●多彩だった生物の記憶

3月下旬の早朝、干潟が見渡せる龍神社前。特定非営利活動法人西条自然学校の理事長で、干潟の生物調査をしている山本貴仁さんから干潟の現状を聞いた。

「奇跡的に残った広大な干潟ですが生物相はとても貧弱です」。山本さんは続けて「子どもの頃はアサリやハマグリなどが多く採れましたが、今はほとんど見られません」と説明する。それでもスナモグリやゴカイ類、カニ類が生息し、貴重な種も多くいるという。

周辺の沿岸地域に多くあった干潟や遠浅の砂浜海岸のほとんどが埋め立てで消失しているため、この干潟は水産資源の基になる生き物の生息に欠かせない貴重な場所となっている。

漁業は小型底引き網、刺し網漁などで多種多様の魚が捕れ、ノリ養殖もあるが、漁獲量の減少や漁業者の高齢化が進んでいる。

干潟の生物調査のほかに、山本さんたちが取り組んでいるのが上流の山の整備。西日本の最高峰、石鎚山いしづちさん(標高1,982m)周辺に広がる山林だ。石鎚山は西条市出身のテノール歌手、秋川雅史が歌う同名の歌(作詞・作曲:新井満)が「父母なる山の声がする」と称え、山岳信仰の山として崇敬されている。

西条市は面積の7割が森林で、そのほとんどが人工林だという。太平洋戦争後の拡大造林などによって照葉樹林はスギ、ヒノキに置き換わった。成長した枝葉が混み合い、降雨が地面に落下するのを妨げる「樹冠閉塞」を引き起こしている。落葉が少ないので腐葉土もできず、保水力もない不健康な状態だ。

西条自然学校は委託された放置林の整理や伐採をする。その後は鳥と風が運んだ樹木の種が芽を出し、森が再生し始める。真っ先に生えてくるのはタラノキ、アカメガシワなど。山本さんは「植林すると必要になってくる管理コストが発生しません」と合理性を強調する。伐採した木は売却し、葉から作ったアロマオイルもネット販売などしている。

山本さんは愛媛大学大学院修了(地理生態学)後、博物館学芸員を経て20年前に自然学校を設立した。スタッフは森林管理や動植物などの専門知識を持つ5人。各種調査や観察会などの活動で市民の自然保護意識を高めている。豊富な情報と経験があり、行政との良好なパートナーシップも築いている。これまでの活動は、みどりの日環境大臣賞受賞(2020年)など数々の受賞で高く評価されている。

西条市は水に恵まれた「水の都」。干潟近くの禎瑞ていずいの水郷では集落が乙女川の川面に映る美しい光景から「西条のベネチア」と呼ばれる。平野部を潤しているのは石鎚山を水源とする加茂川(流路延長約28km)などの伏流水だ。地上に湧き出る自噴水や自噴井は「うちぬき」と呼ばれ、3,000ヵ所もある。うちぬきは「名水百選」(環境省)、「水の郷」(国土交通省)のほか、日本一のおいしい水にも選ばれた。生活、農業、工業などに広く利用されている。日本酒造りにも使われ、最近まで大手ビール工場も稼働していた。

市役所南側にある「うちぬき広場」や市総合文化会館そばの「観音水の泉」を見た。あふれる清らかな水を見ていると心までが洗われるようだ。

西条市役所近くの「うちぬき広場」

●物流の中継基地「口屋」

さて、別子銅山について。西条市東隣の新居浜市山中にあった銅山で、1691(元禄4)年の開坑から1973(昭和48)年までの283年間に産出した銅の総量は約65万t。日本屈指のこの銅山の歴史を知ろうと、史跡「口屋跡」の近くに宿泊した。開坑から11年後に設置された口屋(後に住友分店と改称)は新居浜の中心地に置かれ、1889(明治22)年に西へ2kmほどの惣開そうびらきに移転するまでの188年間、別子銅山から運ばれた粗銅あらがねを大阪(大坂)へ船で送り出し、銅山で必要な食糧や資材などを供給する物流の中継基地だった。

翌朝、海岸通り沿いにある口屋の碑や説明板、あかがねの松を見て、惣開町にある住友化学歴史資料館の建物まで足を伸ばした。

開坑当時の旧別子は標高1,000mを超す場所から仲持なかもちと呼ばれた人たちが産出した粗銅や食料などを背負い徒歩で往復した。採鉱や製錬技術などの発展に伴い、別子銅山は施設の拡充、移転などが何度もあった。1916(大正5)年から30(昭和5)年まで採鉱本部が置かれた東平とうなるなどの産業遺産群には、選鉱場、鉱山鉄道、トンネル、発電所、変電所、住居跡などが残っている。古色蒼然こしょくそうぜんのものとともに、昭和初期に運動会用などとして造られた山根競技場観覧席のような現役の施設もある。観覧席は約6万人を収容でき、四国三大祭りの一つ、新居浜太鼓祭りの「かき比べ」では太鼓台と呼ばれる山車と観客で埋め尽くされる…。

口屋跡から車で20km走り、細い山道を登って「マイントピア別子東平ゾーン」を訪れた。山の斜面にある貯鉱庫や選鉱場の跡が「東洋のマチュピチュ」として人気の観光地になっている。谷間から新居浜市街を展望し、銅山の規模の大きさ、時の流れを感じた。

マイントピア別子東平ゾーン (後方に新居浜市)

●鉱害を防ぐ数々の対策

別子銅山の歴史を調べると、「別子銅山中興の祖」とされ、第二代住友総理事(経営トップ)を務めた伊庭貞剛伊庭貞剛いばていごう(1847-1926)を知った。銅山開発に伴う環境対策に積極的に取り組んだ人物だ。1894(明治27)年に別子鉱山支配人となり、銅山の荒れた山を見て「天地の大道に背くことだ」と考え、多い時で年間200万本以上を植林して緑を復元。海抜750mの第三通洞(トンネル)から新居浜の海岸まで全長16kmのれんが製の坑水路を敷設し、鉱毒を中和処理する収銅所も設けた。製錬所の煙害問題解決のため惣開から新居浜沖、約20kmにある四阪島しさかじまへの製錬所移転も決断した。足尾銅山鉱毒事件の被害解決に尽くした田中正造は、伊庭の取り組みを評価し、別子銅山を「我が国銅山の模範」とした。四阪島移転後も煙害問題が続いたが1939(昭和14)年、亜硫酸ガスの中和脱硫の技術開発に成功し、問題は解決した。移転から34年後だった。

東平に続いて愛媛県総合科学博物館と「あかがねミュージアム」を訪れた。豊富な資料から別子銅山が住友金属鉱山、住友化学、住友重機械工業、住友林業など現在の住友グループの礎であること、発展の背景や経緯に理解を深めた。

明治維新後の殖産興業、富国強兵を掲げて始まった産業の近代化は、自然破壊や公害、労働問題などの「負の代償」を伴った。世界がSDGsに取り組む現代、別子銅山の歴史をどう評価するのか。西条市に残された干潟のような自然と産業の共存をどう考えるのか。環境と人間の関係に思いは巡る。

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