21世紀の新環境政策論 人間と地球のための持続可能な経済とは第66回 宇沢弘文教授没後10年、『自動車の社会的費用』を改めて読む
2024年07月16日グローバルネット2024年7月号
京都大学名誉教授
(公財)地球環境戦略研究機関シニアフェロー
松下 和夫(まつした かずお)
『自動車の社会的費用』は、世界的な経済学者であった宇沢弘文東大名誉教授(1928~2014年、以下敬称略)が、自動車の社会的な負の側面を指摘し、警鐘を鳴らした書籍である。経済学の考え方をベースにしながら、自動車のもたらす害について理論的に論じ、1974年に出版され、当時ベストセラーとなり、またその後もロングセラーとして今日まで社会に大きなインパクトを与えてきた。
宇沢はその後『社会的共通資本』や『地球温暖化を考える』など多数の論考を著し、当時の正統的経済理論であった新古典派経済理論の限界を指摘しつつ、地球環境問題や持続可能な発展の理論につながる重要な貢献を行っている。持続可能で安定的な市場経済は、自然環境や社会制度など市場以外の要素があって初めて成り立つ。宇沢は両者の結節点に位置する「社会的共通資本」という概念を生み出し、この概念が今も環境問題研究者の理論的分析のよりどころとなっている。
宇沢の没後10年、そして『自動車の社会的費用』出版後50年の節目に、この本を改めて読んでみよう。
自動車と道路の社会的費用
本書のポイントは、市民の基本的権利を確保する立場から自動車の社会的費用を具体的に算出し、その内部化の方途を探り、在るべき都市交通の姿を示唆した点にある。
社会的費用とは経済学の概念で、個人や企業による経済活動の結果、第三者あるいは社会に及ぼす損失のことである。自動車の社会的費用は、交通事故、犯罪、公害、環境破壊などの形で現れ、これらは市民の基本的権利を侵害し、人々に不可逆的な損失をもたらす。
また、自動車利用と密接不可分である道路については、「社会的共通資本」という観点からの考察を行っている。大気などの自然資本や、橋や道路などの社会資本は、各経済主体が自由に使用することができ、私的所有や市場原理に適さない、誰かが利用すれば他の誰かが利用できず損害を被るという混雑現象が発生する。これらを宇沢は社会的共通資本と呼んだ。社会的共通資本の一単位の使用に伴って他の経済主体に与える限界的な損害額を全ての経済主体について集計すると、その使用に伴って発生する限界的社会費用が算定される。この限界的社会費用の分だけ使用料を課すのが、社会的共通資本の最も効率的な使用法である。ところが現実には自動車のユーザーは自動車の車体に関する経済的負担しかしていない。道路は税金で整備される。これは、自動車ユーザーは、本来道路建設の経済的負担を免れているということになる。
かくして自動車通行の社会的費用は、歩行、健康、住居に関する市民的権利を害さないために、歩道と車道との分離、並木などの設営、歩行者の横断の容易化、交通環境の改善、住宅環境への配慮、などを行ったときにかかる道路工事の費用の全体をも包含する。このことは、究極的には私たちがどのような都市構造を求め、どのような交通体系が望ましいかという問題に関わる。
宇沢は、自動車はそれだけの社会的費用を生み出しているのだから、その保有には大きな使用料を課すべきであり、現在の状態では、社会全体の効率性をないがしろにして、自動車保有者の利益だけが不当に優遇されている、とする。
「社会的共通資本は、その使用に対して、社会的費用が発生しないように設計され、管理されなければならない。上に考えたような社会的費用はもともと発生してはならないものであって、社会的費用の発生をみるような経済活動自体、市民の基本的権利を侵害するものであるという点から、許してはならないはずである。」と宇沢は述べている。
自動車の社会的費用の推計
宇沢は、自動車の所有者・使用者が負担すべき費用を負担せず、外部に転嫁していることが無秩序な自動車依存が拡大する理由であるとして、「歩行・健康・居住などに関する市民の基本的権利を侵害しないように道路やクルマを改良した場合の投資額」を自動車1台あたり1,200万円と推定し、それをクルマ利用者に割り振ると年額で「約200万円」(当時の価格)になることを示した。
当時はモータリゼーションと呼ばれる、国を挙げて自動車普及が推進されていた時代であった。本書の推計は大きな論争を巻き起こし、自動車産業や道路関係者からは非現実的で過大な推計だという批判が殺到した。これに対して宇沢は、「各都市の設計はもちろん、全国的な交通体系の設計にさいしては、自動車の社会的費用が内部化されているように、自動車道路の設計、その建設費用の負担、都市におけるさまざまなインフラストラクチャーの建設、さらに自動車の購入、保有に対する課税制度を考慮すべきである。このときはじめて、社会的共通資本をも含めた、希少資源の効率的ないし最適な資源配分が実現し、安定的な社会、経済的状態を維持することが可能になる」とする。
50年後の今日と望ましい未来
交通事故による死者の数がピークとなったのは1970年で1万6,765人/年に達し、第1次交通戦争とも呼ばれていた。それが今日(2023年)では2,678人と大きく減少している。また、自動車からの排気ガスや騒音も政府による規制とそれに対応したメーカーの技術開発によりかなり改善されている。
一方で自動車はその生産と使用の過程で膨大なエネルギー資源を浪費し、とりわけ化石燃料の使用で気候変動の原因となる温室効果ガスを大量に排出する。これをどう抑制するかは大きな課題である。
さらに社会的な面で自動車の大きな負の側面は、公共交通が発達した一部の都市を除き、自動車がないと基本的な生活ニーズも満たせないような「車依存社会」が構造化してしまったことだ。高齢化・過疎化が進む今日、安全で自由な移動をどのようにして確保するかは、生活の質(QOL)にも直結する重要な課題だ。
こうした課題の解決策として、電気自動車(EV)の普及や自動運転の活用が検討されている。このような技術的な可能性の追求とその普及策は重要だ。ただしEVの大量生産と普及が究極的な解決策ではない。EVに充電する電源の再エネ化はもとより、効率的で安全な公共交通システムの導入、カーシェアリングなどの選択肢の拡充、都市のコンパクト化などの推進が必要だ。さらには安全で快適な歩道や自転車専用道路の十分な確保、テレワークやオンライン会議の活用も生かし、自動車総数と走行量を大幅に減らすことにより、社会的費用を減らし、自動車に過度に依存しないで生活できる都市構造・社会構造に移行することが望まれる。
『自動車の社会的費用』が示唆するもの
近代経済学は、経済を人間の心から切り離して、ホモエコノミクスと呼ばれる経済人(経済合理主義的に活動する個人)を前提にして構成され、現実の文化的、歴史的、社会的な側面から切り離して、経済的な計算のみに基づいて行動する抽象的存在としての人間を対象とし、人の心について語ることをタブーとしている。
宇沢はこのような経済学の現状を批判的に再構築し、一人ひとりの人間的な尊厳が守られ、魂の自立が図られ、市民の基本的権利が最大限に確保できるような安定的な社会の具現化という根源的な命題の実現に取り組もうとしたのである。
『自動車の社会的費用』は、宇沢が、10年間ものアメリカでの滞在から帰国し、日本の交通事情のひどさに驚くところから始まる。高度経済成長の華々しい成果を謳歌していたはずの日本に帰ってきてみると、非人間的な公害問題や自然の破壊、とりわけ歩道も整備されない状態でのモータリゼーションによって危険にさらされる子どもたちの姿に衝撃を受けた。その衝撃を自らの学問的営為に反映し、自らが関わってきた新古典派経済学の枠組みを根本的に見直す作業に正面から取り組み、社会的共通資本論の提唱に至ったのである。『自動車の社会的費用』はそのような営為の当時の到達点であった。50年後の今日もその示唆するところは深淵であり、そのメッセージをどう生かすかが、私たちに問われている。