日本の沿岸を歩く海幸と人と環境と第88回 「海の聖地」金比羅宮の信仰と塩飽―香川県・琴平

2024年07月16日グローバルネット2024年7月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

♪こんぴら船々、追手おいてに帆かけて、しゅらしゅっしゅ…。有名なこの歌の舞台は香川県丸亀市の南15kmにある金刀比羅宮ことひらぐうだ。江戸時代から信仰が盛んになり、1868(明治元)年の神仏分離で、金毘羅大権現は琴平神社に、さらに金刀比羅宮に改称した。特に海上交通の守り神として信仰され、漁業者、船員など海で働く人々の崇敬を集めてきた。現在も年間400万人の「こんぴら参り」がある。海と日本人の強い絆を感じる場所である。

金刀比羅宮本宮

●お伊勢参りと並ぶ盛況

取材の日、夜明けを迎えたのは瀬戸大橋の付け根近くにある宇多津うたづ臨海公園(宇多津町)。江戸時代から半世紀前まで存在した入浜式いりはましき塩田が復元されている。香川県では坂出市とともに製塩で知られる。降水量が少なく、干満の差が大きい瀬戸内海の恵みだ。塩は「讃岐三白」(他は砂糖と木綿)と呼ばれ、名産のうどんやそうめん、みそ・しょうゆ作りに使われてきた。

少し西へ進むと丸亀。その南にある象頭山ぞうずさん(標高538m)の中腹に金刀比羅宮がある。丸亀沖の海から夜も灯火が見える。

金刀比羅宮の人気が高まったのは江戸時代になってから。祭神は大物主神おおものぬしで天皇からの「日本一社の勅願所」、徳川幕府の祈願所のお墨付きを得て、大名から庶民まで幅広い信仰を集めた。19世紀からは諸国の「講」(助け合いの集まり)による、こんぴら参りや寄進が盛んになり「海の神様」は、伊勢参りと並ぶ盛況を見せた。現在、全国に約600社ある金刀比羅神社(琴平神社、事比羅神社、金比羅神社)の総本宮である。

琴平町教育委員会の文化財専門員、丸尾寛さんを訪ねた。丸尾さんは「絵馬堂が解体されてしまい、絵馬などの奉納品を見ることができませんが」と断ってから、絵馬の説明を始めた。

絵馬は航海の安全祈願や遭難救助への感謝を示す。荒海で波間に漂う人々が「こんぴらさん」に祈る情景が迫力満点に描かれている。象頭山が見える海域に流す「流し樽」も展示されていた。「奉納 金刀比羅宮」と記した幟を付けた樽には酒やお金が入っており、樽を回収した人が代わりに奉納する。

門前町の琴平はにぎわい、江戸末期の天保9(1838)年には758軒もの宿や店などがあった。参拝が済めば「飲む(酒)、打つ(ばくち、富くじ)、買う(遊女)」の物見遊山に変わった。丸尾さんは「旅行だけでなく日常生活が制限された時代、庶民は信仰を名目にひとときの解放感を味わったのでしょう」と解説する。

門前町には幕末の漢詩人、日柳燕石くさなぎえんせきがいた。ばくち打ちの親分の顔も持ち、高杉晋作など幕末に活動した勤王の志士をかくまうなどした人物。当時の混濁の世相がうかがえる。

本州からの参拝者は海路で四国を目指し、四国内にはこんぴらさんへ五つの街道(丸亀、多度津、高松、阿波、伊予・土佐街道)があり、最も栄えたのが丸亀街道。丸亀港から15kmを徒歩や馬、かごを使った。明治以降は1889(明治22)年に四国初の鉄道として多度津-丸亀-琴平間が開通した。その後琴平には最多で4本の鉄道が乗り入れ、現在のJRと高松琴平電気鉄道となる。

さて、丸尾さんから見所を教えてもらい、こんぴら参りへ。表参道に来ると大鳥居の辺りから多くの人々でにぎわっていた。若い人が多く、参拝地というより観光地の雰囲気。銘菓「灸まん」の茶屋や讃岐うどんの店、土産物店などがひしめき合っていた。

本宮社殿まで785段(奥社まで1368段)の石段を時々休みながら登った。参道には多くの奉納された玉垣と石灯籠が並んで壮観。寄進者は大手の海運会社、保険会社、個人などで、知っている会社名もあった。たどり着いた本宮で手を合わせると、近くの展望所から琴平の町並みや丸亀、その先の瀬戸内海を眺めた。

参拝の後、立ち寄った旧金毘羅大芝居(重要文化財)はちょうど「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の準備中だった。金丸座とも呼ばれ、日本最古の歌舞伎劇場は外観だけ見て我慢である。琴平海洋博物館(海の科学館)では参拝者を運んだ「こんぴら丸」の模型を見た。

●咸臨丸水夫として活躍

琴平町を訪ねた日の早朝、塩飽しわく諸島で中心的な存在である島、本島ほんじまを訪ねた。丸亀港午前6時10分出発。フェリーは瀬戸大橋(1988年開通)と並行して進み、35分で12㎞先の本島泊港に到着した。港には1860(万延元)年、渡米した咸臨丸の顕彰碑があった。勝海舟や福沢諭吉、中浜万次郎(ジョン万次郎)らを乗せた咸臨丸の水夫50人のうち、35人を塩飽諸島出身者が占めたことは郷土の誇りだ。

塩飽諸島は28の島があり、本島は面積6.74km2で2番目の大きさ。島の周辺は古くからタイやサワラ、タコなどが捕れる豊かな漁場で、タコつぼ漁、伝統的なタイラギの潜水漁などがある。最近では「海を休ませるサバ」というブランドでマサバ養殖が始まった。養殖によって出漁を減らし、海の貧栄養化や漁獲量減などに直面する漁業を元気にしようという狙いだ。

塩飽の歴史は波乱に富んでいる。平安末期から海賊衆として活動し、戦国時代には物資や人員の輸送で貢献し、織田信長から所領を保証する朱印状が与えられた。豊臣、徳川の時代も継続された。人名にんみょうと呼ばれる650人の船方(船乗り)による塩飽七島の統治が認められた。1672 (寛文12)年に奥羽(東北地方)から日本海、瀬戸内海を経由して江戸に至る「西廻り航路」が整備されると、操船や航海技術に優れた塩飽の廻船業者が幕府直雇じきやといとして幕府直轄地(天領)からの年貢米を運ぶ役割を得た。塩飽の水夫たちは縁の深い金毘羅大権現へ海上の安全を祈願し、同時に信仰を各地に広めた。

●急速な減少続く島人口

元禄年間(1688~1704)が塩飽諸島の廻船業が最も栄えた。しかし、1720(享保5)年に米運搬が他の請負になると、塩飽の廻船は衰退した。造船技術も持っていた塩飽の人々は船大工や宮大工、家大工になって各地で活躍することになる。

本島ではレンタサイクルで旧政庁である塩飽勤番所、細い路地が入り組んだ笠島まち並保存地区などを巡った。後者は昭和初期にかけての伝統的な町屋建築である。人の気配がせず、やっと出会った女性は沖を通過する大型船を見るのが楽しみだと話し、同時に過疎化を憂いていた。島の人口255人(5月1日現在)は10年前より2割以上減ったことを後で知った。

本島の笠島まち並保存地区

再びフェリーで丸亀港に戻った。こんぴら参りの上陸港であり、丸亀街道の出発点でもある港には往時のシンボルである「江戸講中灯籠」が残っている。「太助灯籠」とも呼ばれ、入港の目印だった。近くに幕末の越後長岡藩(新潟県)の家臣河井継之助つぎのすけの碑があり、こんぴら参りをし丸亀の景色を賞賛したと記してある。河井は司馬遼太郎の小説『峠』の主人公で、「武装中立」を掲げるも新政府軍に敗れた。藩政改革を進め、軍艦入手という海の力への憧憬を持っていた。

「金毘羅信仰」からたどる歴史には、日本人が海の民である証拠が限りなく存在しているようだ。

丸亀港に残る江戸講中灯籠

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