フォーラム随想地球環境と人権と人間の権利

2024年05月16日グローバルネット2024年5月号

長崎大学大学院プラネタリーヘルス学環、熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授
 渡辺 知保(わたなべ ちほ)

 スイスの市民グループが、スイスの気候変動対策は不十分でこれは人権侵害に当たると言って起こしていた訴えが、欧州人権裁判所(ECHR)によって認められたと最近のニュースで報じられた。ECHRは大きな権限を持つ機関で、BBCの記事によればこの判決には拘束力があり(binding)、加盟国への波及効果も多大ということなので、日本で時々出される「一票の重みの格差が違憲状態にある」といった判決と比べると、かなり実効的な意味を持つようだ。
 訴えていたのはスイスの女性市民団体で主に70代と高齢で、気候変動による熱波に対して高齢女性が特に脆弱であるのに、スイスは温室効果ガスの排出削減目標を達成する努力が極めて不十分であるとして訴えていた。
 環境と人権の問題は当然奥が深くて、私には論じる力はないが、少し調べてみると、2021年には国連の人権理事会が、クリーンで健全で持続可能な環境で生活する権利を認める決議を採択し、翌年、国連総会ではそうした環境へのアクセスを普遍的人権であるという宣言を決議している。21年の決議を提出したのはモルディブやモロッコなど気候変動に脆弱な国々とともにスイスを含む5ヵ国であった。こうした国連機関での動きは元をたどると1972年の国連環境会議における人間環境宣言(ストックホルム宣言)で、「人は尊厳と福祉を保つに足る環境で、自由、平等および十分な生活水準を享受する基本的権利を有する…」としたところに始まる。こうした一連の国連機関の宣言や決議には法的拘束力はない。
 ECHRの判決は拘束力を持つという意味でさらに一歩進んだといえる。ただしECHRは欧州人権条約が十分に機能するために裁判を行う機関であって、その拘束力は条約加盟国である欧州評議会の国々に限られる(といっても大変大きな影響だが)。

 

 国連でもECHRでも脆弱な構成員から声が上がったのは、権利を巡る問題に普遍的な特徴なのだろう。良い環境を求めるのは人間の当然の権利だという考え方は、確かにその通りと思うが、それを権利として主張し争わざるを得なくなったということ自体が深刻であるともいえる。が、考えてみれば、あまたの生物の中にあって人間ほど“声の大きな”種はいない。他に脆弱な生き物がたくさんいて、それらを人間が絶滅に追いやっているのが現状である。
 人間の当然の権利、というのはあくまで人類の中での相対的な話であり、では人類全体が地球全体に向かって人間の当然の権利、といえるのはどのくらいなのかは簡単に決まる話ではない。地球全体を視野に入れれば、例えば川や森のような無生物にも法人格を認めようという主張もあり、2020年、ニュージーランドでは実際にこれが法律化され、川が法人の持つ管理・義務・責任を有するとした例がある。
 昨年半ばにNature誌に公表されたEarth System Boundaries という概念は、よく知られたプラネタリー・バウンダリーズの枠組みを踏まえ、そこに人間と人間以外の生物への影響も加味して人間活動の上限を定めるというjust の考え方が導入されたもので、人間の“当然の”権利と他の生物の権利とのバランスという考え方に科学が踏み込んでいる。

 

 もし、人間が他の動植物の意見を理解できていたら、彼らが“当然の権利”を主張する声でさぞかし、かまびすしい世の中になっていただろう。しかし、自分の生存と直接に関係がない小さな声に耳を傾けることができるのも、人間の特技ではあるはずだ(これさえも人間のおごり・思い込みなのかもしれないが)。
 そのうちに生物種汎用のチャットGPTでもできれば、われわれも動植物の意見を理解できるようになるのかもしれない。それともチャットGPTは人間の理屈で組み立てられるので、それはかなわぬ夢なのだろうか。

 

*誌面では最後の段落に以下の誤りがありました。お詫びして訂正いたします。
(誤)チャットGPI
(正)チャットGPT

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