ホットレポート「脱炭素」「自然生態系の保全」~奇妙な対立構図

2023年07月14日グローバルネット2023年7月号

ジャーナリスト
河野 博子(こうの ひろこ)

新潮流「ネイチャーポジティブ」

欧州では「生物多様性、自然生態系の回復」が金融・ビジネス界の新潮流になりつつある。今年4月、絶滅危惧種などを示すレッドリストで知られる「IUCN(国際自然保護連合)」のブルーノ・オベール事務局長が来日した。IUCNはスイスに本部があり、その新潮流の“作り手”でもある。

最近、日本でも「ネイチャーポジティブ」という言葉を耳にするようになった。「ネイチャー・ベースト・ソリューション(自然に根差した解決、略してNbS)」という言葉も昨年あたりから一部で盛んに使われ出した。であるのに、「自然生態系の保全」は「脱炭素」の勢いに押され、ないがしろにされているように感じる。ネイチャーポジティブなどの用語もよくわからない。そこで、オベール事務局長にインタビューしたところ、極めてわかりやすい説明をしてくれた。

「温室効果ガスの排出削減において、自然はわれわれの強力な味方です。科学者の研究により、大気中に排出される二酸化炭素のおおむね3分の1は(海、森、土壌など)自然により吸収され、バイオマス(生物体量)の中に蓄積されることがわかってきました」「NbSは、自然は私たちの問題解決の助けになるという考え方です。自然を回復させ、自然を守り、自然に投資する、そのことが社会と自然の双方にとって良い状態を生みます。NbSは気候変動、生物多様性という二つの分野にかける橋ともいえます」 確かに、アメリカのホワイトハウスが昨年11月に発表した「NbS促進のためのロードマップ」を見ると、オベール局長の説明がよくわかる。

例えば、海岸の生物の生息地、森林、湿地、草原の保全や復元は、大気から二酸化炭素を吸収して貯蔵し、気候変動のスピードを緩める、としている。また、湿地や森林、農地による洪水の貯留機能を強化することで、大雨による水害を抑制することができる。昨年11月の国連気候変動枠組条約第27回締約国会議では、決定事項にNbSの重要性が盛り込まれた。

では、ネイチャーポジティブとは?

オベール事務局長によると、「少し政治的な意味合いのある言葉」。二酸化炭素の排出量と吸収量が事実上、等しくなる状態を表す「カーボン・ニュートラル」と似ていて、生物多様性の喪失、生態系の劣化が止まり回復に向かう状態を表し、それをイメージして取り組めるように考え出されたのだという。

インタビューに答えるオベール事務局長
(筆者撮影)

「成長の限界」に端を発する変革

IUCNといえば、絶滅危惧種のリストのほかに、世界自然遺産登録の際に行われる「審査」でも知られる。登録の可否は、事実上、IUCNの専門家による審査で決まるといわれるほど、重要なプロセスだ。

インタビューの前に、オベール事務局長を紹介する記事を読んだところ、「生物学者」としているものが目立った。そうなのだろうか。本人に聞いてみた。

「大学では、自然科学と経済学の両方を勉強しました。『成長の限界』を読んで、これこそ私の勉強したいこと、と思った。ですが、当時、大学にそんなカリキュラムはありませんでした」 『成長の限界』は、1972年にニューヨークで出版され、世界的なベストセラーになった。1970年にスイスで設立された法人(民間組織)で、世界各国の科学者、経済学者、プランナー、教育者、経営者からなる「ローマ・クラブ」が米マサチューセッツ工科大学の研究者らに委嘱して行った研究成果を取りまとめたもの。「世界人口、工業化、汚染、食料生産、資源の使用が不変のまま続くならば、100年以内に地球上の成長は限界点に達するであろう」との結論を導き出している。

1970年代の世界は石油危機(第一次1973年~、第二次1979年~)に見舞われ、資源と環境は無尽蔵ではなく、それが制約条件になって経済成長はできなくなるとの考えが現実味を帯びていた。1950年代中頃から1970年代初頭にかけて高度経済成長真っただ中にあった日本でも、1972年5月に日本語訳が出版され、衝撃を広げた。

オベール事務局長は1974年、スイス連邦工科大学に入り、マクロ経済学も勉強した。そのためか、経済理論にも一家言ある。

「誰もが金をもうけることを第一に考えているという認識は、シカゴ学派から発生しました。ケインズ学派は、株主はもっと広い責任を持っている、株主は利害関係者、労働者、コミュニティにとっての価値を生み出さなければならないと考えます。私は個人的にはこの考え方の方がより賢く、長期にわたっての安定性をもたらすと思う。産業という観点から考えても、公共財に投資することは賢く知的で、そのうちそれを必要とする法体制もできるのではないかと考えます」

欧州では現在、機関投資家が生物多様性喪失のリスクを考えて投資先や投資額を決められるような流れができつつある。「自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)」が発足し、準備が進められているのだ。その背景には、ビジネスの在り方、経済の在り方への深い洞察があるのだろうか。

「昭和型開発」が幅を利かせる日本の土地利用

5月下旬、北海道の釧路湿原に行った。しばしば、NbSの成功例として紹介される日本一広大な湿原である。

二酸化炭素を吸収し、貯留する機能について、その炭素貯留量は、釧路市の約9万5,000世帯の約82.8年分に相当するとした算定結果がある。2016年8月の大雨の際には、釧路湿原が巨大なスポンジのように降水~流量を吸い取り、約2日間という時間差で徐々に釧路川を通じて海に放出したため、釧路市で水害が起きずに済んだことが、国立環境研究所や国土交通省の解析でわかった。

その釧路湿原で今、問題になっているのが、太陽光発電施設の乱立だ。開発が抑制されてきた国立公園区域外の市街化調整区域で、ソーラーパネルの“浸食”が止まらない。建築基準法上の建物に当たらないため、設置が可能で、高さが8メートルを超える工作物の設置を禁じた釧路市景観条例もクリアしてしまうからだ。

実際に、湿原区域のメガソーラーを見て回った。ある場所は、特別天然記念物のタンチョウの繁殖が長年確認されてきた場所、そして絶滅危惧種のキタサンショウウオの産卵が確認された場所のそば。まさに湿原の中に土砂を入れ、整地をしてソーラーパネル群が設置されていた。

釧路市は、文化財保護条例によりキタサンショウウオを保護している。このため、生息適地マップを公表し、土地所有者や事業者に協力を求めてきた。すんなりと協力が得られるわけではない。昨年開かれたシンポジウムで、登壇した担当者がこぼしていた。「価値がなかった土地がせっかく売れようとしているのに、と湿原の土地所有者から怒られたこともあります」。

広く世界を見渡せば、欧州発の生物多様性・生態系保全の波が広がる。スイスには、「山国なので洪水や土砂災害防止が大事であり、森林は自然災害リスクに対する防衛線であると法体系で位置付けられている」(オベール事務局長)という基本的な土地法制があり、その上にTNFDのような取り組みがある。

日本の土地法制には、発電施設の適正立地を定めるゾーニングの仕組みがない。地方自治体による規制条例は次々に生まれている。だが昭和型の開発がいまだに幅を利かせる土地利用の在り方に国レベルでメスを入れない限り、問題の抜本的解決は遠い。

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