特集/未来世代を有害化学物質の悪影響から守るために必要なことEUの有害化学物質規制と日本の政策的課題
2023年06月15日グローバルネット2023年6月号
弁護士、ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議(JEPA) 代表理事
中下 裕子(なかした ゆうこ)
特に、発達障害の増加、免疫異常・肥満の増加、不妊・流産、出生数の低下など、子どもの生存と健康に関する問題の原因として、特定の環境ホルモンや有害化学物質による悪影響を指摘する研究が近年蓄積しています。
本特集では、環境ホルモンや有害化学物質が脳・身体の発達や生殖機能に与える悪影響、身の回りの製品に潜むリスク、EUで先行する法規制について解説していただき、政策・規制の在り方や消費者として気を付けたいことを考えます。
有害化学物質規制とは何か、なぜ必要か
医薬品から、食品、プラスチック、洗剤、化粧品、殺虫剤、農薬類に至るまで、私たちの身の回りには便利な化学物質があふれています。しかし、過去の公害事件を振り返ると、これらの化学物質の中には、人や生態系に重大な悪影響を及ぼすものもあることは否定できません。このように、化学物質には「光」と「影」があります。「光」を享受しつつ、「影」をコントロールする知恵が、私たち人間に求められているのです。それが有害化学物質規制です。
規制の対象は、環境中で容易に分解せず、脂肪に蓄積する性質があるために、食物連鎖を通じて人間の体内に高濃度で蓄積し、かつ人への毒性がある化学物質(PBT)を、市場に出る前に、個別に審査・規制する制度の導入から始まりました。日本では化学物質審査規制法(化審法)が1973年に制定され、2001年には国連で「残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約」が採択されています。
また、有害化学物質の規制は個別物質ごとのリスク評価に基づいているのが現状ですが、複合影響や複合ばく露の考慮や、同種の化学物質をグループとして管理する必要性などが指摘されています。
内分泌かく乱化学物質(EDC)問題の提起
こうした有害化学物質規制の対象となる毒性(有害性)については、当初は、因果関係が明らかな急性毒性(化学物質にばく露してから数日以内に発症する毒性)でしたが、やがて、催奇形性、生殖毒性、発ガン性などの長期毒性も対象とされるようになっています。
1996年、シーア・コルボーンらは、『奪われし未来』を刊行し、化学物質の内分泌かく乱作用を警告して、世界的関心を集めました。当初は、雌雄同体化した魚、ペニスが短小化して生殖能力を失ったワニ、メス同士でつがう鳥、不妊のミンクなど、野生生物の生殖異変を中心に報告され、大きな衝撃を与えました。しかし、人間については、精子の減少を指摘する論文もありましたが、減少していないと報告する論文もあり、人間への影響はまだ明らかになっていませんでした。とはいえ、「人工の化学物質が、生体のホルモンの働きをかく乱する」という発見は、大きな驚きでした。というのも、ホルモンは、①成長と発達、②代謝とエネルギーバランス、③食欲、④血糖バランス、⑤性機能と性欲求、⑥生殖、⑦気分、⑧睡眠、⑨ストレス反応などのさまざまな調節作用を担っています。ホルモンはフィードバック機構を介して働いており、私たちの体内の多くの器官・機能は、適所、適時、適量のホルモンに依存しているのです。EDCは、ごく微量で、こうしたホルモンの働きを阻害し、その結果、調節作用のアンバランスを招き、疾病につながる場合もあります。特に、胎児・子どもの場合、成長・発達期におけるホルモンかく乱は、その後の発達に不可逆的影響を及ぼすことがあるので、要注意です。
従来の毒性は、ばく露量が大きくなると悪影響が現れますが、少量の場合には現れず、「『毒』も薄めれば『薬』」と言われていました。しかし、EDCの場合は、生体の情報伝達をかく乱するというもので、このような作用は、従来の量よりもずっと少ない量(従来の毒性では安全基準以下の量)でも起きてしまいます。むしろ高い量では影響が出ないのに、低い量の場合にかく乱作用が生じることもあるのです。
こうしたEDCの特徴から、従来の規制の枠組みでは対処できず、新たな規制の枠組みの必要性が指摘されていました。
WHO/UNEPの報告書の公表
既述のとおり、当初は、EDCの人間への影響は不明だったのですが、その後世界中で研究が進められました。2012年、WHO/UNEPは、このような世界中の研究論文についての評価を行い、その報告書を公表しました。その序文では、「脆弱な時期に内分泌制御の変化に至るような濃度でEDCにばく露された場合には、野生生物や実験動物で認められた影響はヒトでも発現する可能性がある。ヒトと野生生物の両者ともに特に懸念されるのは初期発達への影響である。これらの影響は多くの場合、不可逆的であり、ライフサイクルの後期まで明らかにならない可能性があるためである。」と記載されています。つまり、EDCによって人の健康に影響を及ぼす恐れがあることが認められたのです。これを機として、各国でもEDC規制の動きが見られるようになりました。
また、この頃、化学物質による情報伝達のかく乱は、内分泌系のみならず、脳神経系や免疫系においても起きることが報告されるようになりました。有機リン系やネオニコチノイド系農薬による神経伝達物質のかく乱作用によって子どもの脳の発達に影響があることを示唆する研究論文も、増えつつあるのが現状です。
EUにおけるEDC規制の導入
EUでは、1999年にEDC戦略が策定され、①EDC問題の因果関係に関する研究推進と、②予防原則に基づく政策的措置の実施、が明記されました。単なる研究推進にとどまらず、「予防原則に基づく政策的措置の実施」を掲げているところに、EUの姿勢がよく表れています。ちなみに日本では、これに先立つ1998年に、「環境ホルモン戦略研究計画SPEED’98」が策定されていますので、EDC対策への着手は日本の方が早かったわけです。その後、2006年には、一般化学品についての総合的規制法であるEU・REACH法の中で、製造・使用に認可が必要な「高懸念化学物質(SVHC)」として、発ガン物質と同等の懸念が認められるEDCが指定されました。
2009年には、植物保護製品(農薬)法において、人に悪影響を与えるEDCは原則として禁止されることになりました。2012年には、殺生物製品法(農業用以外の殺虫・殺菌剤対象)において、同様の規制が定められました。ただし、EDCの判断基準を巡っては、産業界との攻防が激しく、やがて科学者を巻き込んだ論戦が展開されたため、判断基準はなかなか決まりませんでした。ようやく判断基準が確定し、法規制が実際にスタートしたのは、2018年のことでした。
その後、2020年に策定されたEUの「持続可能性のための化学物質戦略」の中にも、EDCについての独立項目が設けられ、「消費者製品へのEDCの禁止」が盛り込まれています。その後もこの戦略に沿った当局による取り組みが進められています。
日本の政策的課題
既述のとおり、EDCを含む生体内の情報伝達をかく乱する化学物質(シグナル毒性物質)については、新たな毒性としての規制の仕組みを早急に確立することが求められています。日本は、EUよりも早くEDC対策に着手したにもかかわらず、2005年には、EDCリストを取り下げ、研究計画を縮小してしまいました。このため、「環境ホルモンは終わった」との印象を招いたまま、現状はほとんど無策の状態が続いています。
一方、シグナル毒性物質による子どもの健康への影響は、発達障害や男性器の異常、免疫異常、ぜんそく、不妊の増加などの現象に現れているとの指摘もあります。事は子どもの発達への不可逆的影響に関わることですので、もはやこれ以上の空白は許されません。日本は、一日も早く、EUをはじめ国際社会の水準に追い付き、主導的役割を果たすことが求められています。EDC規制の早期実施をはじめ、プラスチック資源循環における有害化学物質規制の実施、農薬法制の見直し、化学物質の総合的管理のための基本法の制定、PFAS汚染への適切な対処など、日本の課題は山積しています。
今こそ、「水俣病を生んでしまった国」としての真摯な反省を、先進的な有害化学物質規制を実施する形で、世界に示すことが求められているのではないでしょうか。