日本の沿岸を歩くー海幸と人と環境と第74回 天神崎ナショナルトラストと熊楠の足跡ー和歌山県・田辺市

2023年05月15日グローバルネット2023年5月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

大切にしている新聞スクラップの中に「天神崎の自然を大切にする会(以下、「大切にする会」)」専務理事、外山とやま八郎さんの記事(1991年9月27日付、朝日新聞「ひと」)がある。天神崎は、美しい自然や歴史的建造物などを市民の募金で買い取り保全するナショナルトラスト運動で守られた。その中心人物の一人が外山さんだ。田辺市には国立公園となった天神崎のほか、「知の巨人」と称され、博物学や民俗学などに大きな足跡を残した南方熊楠みなかたくまぐす(1867~1941)がいた。天神崎とどうつながるのか知りたいと思った。

●山と海がつながる自然

田辺湾に突き出た天神崎は日和山(標高28m)の森から磯、海へと連続する豊かな自然がある。熊野灘の黒潮がぶつかる一帯は生き物の宝庫なのだ。海岸沿いの曲がりくねった細い道を進み、丸山灯台の見える駐車場で、現在公益財団法人となっている「大切にする会」理事の藤五和久さんと事務局の内中倫子さんに会った。

天神崎の磯と丸山

天神崎の保護運動が始まったのは半世紀前の1974年、沿岸部の湿地が別荘地になる計画が持ち上がったことから。当時、開発に行政の規制がかかっておらず「このままでは天神崎の自然が失われる」と危機感を募らせた人びとが集まった。

冒頭に紹介した外山さんらが同僚の教師仲間に声をかけて会を結成した。「団体名が『守る』ではなく『大切にする』になったのは、開発者と敵対関係になるのではなく、一緒に守ろうという願いが込められています」と藤五さんは説明した。運動は国内外に広く知られることになり、開発を食い止めることができた。

天神崎の土地は全国からの募金と借金などによって1991年までに20km2のうち4.4km2を買い取った(約2億4,000万円)。現在までに購入した土地は「計画の半分くらい」(藤五さん)といい、運動に共感する人からの遺贈もあるが、内中さんは「天神崎は変わりませんが、少し離れた扇ヶ浜はすっかり風景が変わりました」と、じわりと迫る開発の波を感じている。

国内初のナショナルトラスト運動は、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮裏山「御谷おやつの森」だが、社会的反響の大きさからは天神崎が先駆者といえるだろう。

●毎年大潮の日に観察会

「大切にする会」発足から半世紀が経過した。現在は遠足で天神崎を訪れる小中学生が非常に多い。歩いて島まで行け、潮だまりで水生生物も観察できる。会は毎年6月の大潮の日に観察会を開いている。3年ぶりに開催した昨年は100人が参加した。最近はインスタ映えの場所として人気だ。夕日を背にすると、岩礁にたまった水が鏡のように反射して感動の景色になる。

話題を熊楠に向けると、熊楠の家族は自宅に近い天神崎にもよく来ていたという。長女文枝さん(2000年に89歳で死去)は「熊楠は将来天神崎が別荘地として開発される可能性がある」と心配していたという。

熊楠の足跡を知ろうと、田辺市の隣、白浜町の番所山公園にある南方熊楠記念館に向かった。記念館は休館日だったが、近くの展望台から円月島えんげつとうなど白浜の絶景とともに、田辺湾をはさんで4kmほど北東に天神崎が見えた。

続いて田辺市内にある南方熊楠顕彰館を訪ねた。2006年に開館した建物の隣には熊楠が暮らした「南方熊楠邸」(登録有形文化財)がある。熊楠は庭の柿の木で変形菌新属を発見している。顕彰館では、「大切にする会」代表理事でもある土永どえい知子さんに面会して熊楠のことを聞いた。

南方熊楠顕彰館

●行幸の天皇に神島案内

熊楠は和歌山城下に生まれ、幼少時から博物学に興味を持ち、1886(明治19)年、19才のときに東京大学予備門(現東京大学教養学部)を中退し渡米。その後英国に渡り、計14年間海外に遊学した。英国では科学雑誌『ネイチャー』に天文学に関する論文を寄稿するなど多くの論文を発表した(生涯で51本寄稿)。

帰国後は和歌山県に戻り、熊野地域の植物研究などを続けた。37歳で田辺市に移り住み、熊楠邸では74歳で亡くなるまでの25年間を過ごした。顕彰館は書物や日記など約2万5,000点の資料を収蔵。熊楠の残した膨大な植物標本の整理などが続いている。

熊楠の功績の一つに神社合祀反対運動がある。明治政府は1906(明治39)年に「神社合祀令」を布告し、一町村一神社にまとめようとした。熊楠は「地域の風習や伝承が残り、固有の生態系がある鎮守の森が破壊される」と翌年から反対運動に立ち上がった。

森林が消滅すれば鳥類が消えて害虫が増え、魚付林の消滅で魚が捕れなくなる。生態系破壊によるデメリットとともに、宗教心や地域社会の衰退や経済への影響などを危惧した熊楠は、地元紙や全国紙での意見発表や講演などで反対を精力的に訴えた。神社合祀反対をつづった『南方二書』は民俗学者柳田國男が冊子にして識者に配布した。

貴族院で1918年、神社合祀廃止が決議され反対運動は終結に至る。それでも多くの神社が合祀された。田辺湾に浮かぶ神島かしまの神島神社もその一つで、神社林の照葉樹林が伐採されることになった。地元の漁民たちは、魚付林がなくなり漁業や防災への影響を懸念して伐採に反対。島をフィールドにして植生の貴重さを熟知していた熊楠は反対運動を先導した。結果、神島の「おやま」「こやま」の2島のうち「おやま」の森林は残すことができた。

1929(昭和4)年、南紀行幸の際、熊楠は昭和天皇を案内し、戦艦長門艦上で進講した。その後1936年に神島は天然記念物になり、神社も元に戻った。南方熊楠記念館前庭の歌碑は、熊楠の死後に昭和天皇が熊楠を慕って詠まれ、短歌が刻まれていると後で知った。

時代は下り2015年、「南方曼陀羅の風景地」が国の名勝に指定された。その風景地13ヵ所は合祀反対運動の中で登場した場所で、複雑な生態系を密教の幾何学的な図柄に例えている。田辺市には神島、鬪雞神社とうけいじんじゃ、須佐神社など9ヵ所がある(他は上富田町、白浜町、串本町)。熊野古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として2004年に世界遺産に登録されたのも「熊楠の功績」(土永さん)という。世界的な知名度を得た熊野古道は、同名の曲(水森かおり歌唱)があるように歴史と癒やしを求める多くの人を引き付ける。

土永さんは、熊楠が「安藤みかん」(安藤柑)の苗木を配布して産業振興しようとしたことや、神島の調査に通う熊楠を地元の漁師が船で送り迎えしたことなど多くのエピソードを紹介してくれた。地元を愛し、地元から愛された人物だったようだ。

博覧強記で十数ヵ国語を使いこなす在野の研究者だった熊楠。大英博物館に通って研究し、孫文とも親交を持った。奇抜な行動や性のタブーを問うなど、固定概念をはるかに超えていた。人物評は多くあるが、筆者は地球環境時代を何歩も先取りした人物だと思う。

取材の最後に田辺市役所前の扇ヶ浜から田辺湾を眺めた。右に天神崎、左に神島の島影。「日本人の可能性の限界」と評される熊楠への興味がさらに募った。

扇ヶ浜から望む神島(右側

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