日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第73回 古式捕鯨の伝統を「海業」に継承ー和歌山県・太地町
2023年04月14日グローバルネット2023年4月号
ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)
本州最南端の和歌山県串本町の潮岬の灯台近くにある鯨山見跡で熊野灘の日の出を見た。古式捕鯨でクジラを見つける重要な役割を果たした鯨山見。太陽の光が差し始めた大海原を見て、勇壮なクジラ漁の様子を想像した。和歌山県の取材(連載4回)は捕鯨を巡り国際的な論議のある太地町から始めることになった。
●熊野灘での捕鯨の歴史
熊野灘沿岸の各地に残る古式捕鯨時代の記憶が2016年、「日本遺産 鯨とともに生きる」に認定された。対象エリアは太地、那智勝浦、串本の3町と新宮市で、構成文化財とされるのは捕鯨に使用した山見などの施設跡や鯨供養碑、クジラにまつわる祭りや伝統行事など29件。潮岬から東の紀伊大島に足を伸ばすと、樫野埼灯台近くに山見跡があるなど、古式捕鯨の存在を身近に感じることができる。
現在の捕鯨事情を簡単に説明すると、国際捕鯨委員会(IWC)で商業捕鯨のモラトリアムが決まると日本は調査捕鯨を実施。2019年にIWCを脱退すると日本の排他的経済水域(EEZ)内で商業捕鯨を再開した。IWC管理の鯨を捕獲しているのは、日本国内では母船式捕鯨と基地式捕鯨があり、基地式捕鯨の小型捕鯨船は国内に5隻あり、うち1隻が太地町漁業協同組合自営の「第七勝丸」(乗組員5人)で4月から10月にかけて千葉沖から北海道沖で操業している。2020年の捕獲数は33頭である。
太地町漁協の組合員で構成する太地いさな組合はIWCの規制対象でないイルカなどの小型鯨類の追い込み漁をしている。追い込み漁で捕獲するのは年間500~1,000頭程度で、イルカショーで需要のある生きたイルカを国内外の水族館に販売、残りは食肉処理して販売している。2019年には全国で1,887頭を捕獲、うち998頭を和歌山県内が占めていた。
太地町に入るとクジラのモニュメントに迎えられ、太地町漁協に着いた。正組合員は100人で、クジラやイルカの他に定置網や一本釣り漁などを行っている。
太地町のイルカ追い込み漁を世界的に有名にしたのは、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞受賞の映画『ザ・コーヴ』(2009年公開)。コーヴ(cove)は入り江の意。映画はイルカをモリで刺し殺して海が血で赤くなる場面など衝撃的な内容だった。だが意図的な編集で残虐性をアピールするだけでなく、イルカの肉を学校給食に出しているなどといくつもの虚偽が指摘された。それでも映画公開後には反捕鯨団体に共感する人びとが太地町に詰めかけた。
「一方的な価値観で批判することは、太地町でイルカ漁に携わってきた人たちの生活権を不当に脅かし、町の歴史や誇りを侮辱するもの」。イルカ漁の許可権限を持つ和歌山県は批判コメントを出している。
その後、映画『ビハインド・ザ・コーヴ~捕鯨問題の謎に迫る~』(2015年公開)などが『ザ・コーヴ』製作の経過や背景を明らかにしている。
太地町漁協の専務理事であり日本小型捕鯨協会会長を務める貝良文さんは「映画公開の前年から脊髄を破壊して瞬時に死なせる方法を採用していました」と説明する。太地町では反捕鯨団体シーシェパードのメンバーなどが『ザ・コーヴ』公開前から太地町でイルカ漁中止を求めて抗議活動をし、漁業者と摩擦があった。漁協はイルカの捕獲頭数を減らしたり、親子連れを逃がしたりする対応策を取り、イルカの解体処理も『ザ・コーヴ』公開前から屋内で行っている。
●耕地少ない地域を潤す
日本では縄文時代から捕鯨の痕跡があり、江戸時代の1606(慶長11)年、太地にいた和田忠兵衛頼元らは「鯨組」による組織的な突き取り捕鯨を始めた。孫の頼治(後に太地角右衛門頼治)はクジラに網を絡ませて動きを止める網掛け突き取り法を考案。太地の捕鯨は飛躍的に発展した。肉は塩漬けにし、鯨油を取った後は、ひげや筋を道具の材料にするなど残すところなく活用した。「一頭で七郷が潤う」といわれ、耕地の少ない紀南地方では鯨肉が貴重な食料となった。捕鯨の役割分担には数百人が必要だっただけでなく、造船や鍛冶など地域の産業を潤していた。
そんな古式捕鯨は1878(明治11)年、終焉を迎える。子連れのセミクジラを追いかけた太地の漁師が遭難し111人が亡くなった(「大背美流れ」)。その後日本ではノルウェー式捕鯨が始まり、近代捕鯨の時代に。戦後は太地町の捕鯨船は23隻を数え、南極海で捕鯨砲手などとして活躍した太地の人びとは数百人に上る。
太地町の将来について、貝さんは「海業」に展望を見出す。「漁獲量減少もあって、漁以外でも組合員の働く場を確保する必要があります。スーパーや道の駅「たいじ」の運営のほか、2014年には太地町が『森浦湾くじらの海』を開設しました」。くじらの海ではクジラ類100頭程度を飼育しており、漁協運営のシーカヤックやスタンドアップパドルボードに乗ると、放し飼いにしたハナゴンドウなど4~8頭を身近に見られる。
さらに今年中に一般財団法人日本鯨類研究所(東京)の支所が設立される。目指すのは太地町立くじらの博物館を合わせた「クジラの学術研究都市」。クジラの恵みを食だけでなく、観光や学術研究にも活用した捕鯨の恒久的な存続を目指すという。
漁協前にある漁協直営のスーパーで「鯨のテッパ」(ハナゴンドウクジラの手羽)などを買い、クジラの情報発信をしている道の駅「たいじ」では、かつて学校給食の人気メニューだった竜田揚げを食べた。漁協近くの恵比寿神社にある鯨骨鳥居を見て、漁港東にある燈明崎へ。ここは古式捕鯨の拠点で、灯台である燈明台や狼煙塚跡などがある山見跡が復元され、近くの梶取崎には鯨の供養碑があるなど、捕鯨発祥の地にふさわしい過去から現在までを感じさせる。
行事も多彩で、飛鳥神社の「お弓神事」のほか、鯨踊りや鯨太鼓などが披露される「太地浦くじら祭」(11月)、実物大のクジラ模型で古式捕鯨を再現する太地浦勇魚(クジラの意)祭(8月14日)などがある。
●異なる宗教観や死生観
串本町から太地町を経て新宮市まで訪ねた。串本町ではケンケン漁(引き縄釣り漁)の漁船を見た。疑似餌付きの複数の釣り糸を引いてカツオなどを捕る。那智勝浦町では魚市場横の「にぎわい広場」を訪れ、近くの無人販売でマグロの刺し身をゲットした。
このように多様な漁業や豊かな海の食文化に接すると、動物愛護や環境保護の立場から捕鯨に反対する人びととの間に埋めがたい価値観のギャップを感じる。さらに菜食主義を認めた上でも、人間は野生であれ飼育であれ、動物を食べて必須アミノ酸を得ている事実がある。宗教や死生観も絡んだ複雑な「クジラ戦争」が簡単に決着すると思われない。
太地町だけでなく日本各地に残る捕鯨の歴史や文化。和歌山県民謡『鯨唄』のような海の民のおおらかさを感じる。捕鯨について筆者は捕鯨の持続可能性を科学的に明確にし、必要な部分は修正するのが現実的だと考える。動物福祉や食料安全保障など社会の基準や意識が変動する中で、太地町の海業の真価が問われている。