フォーラム随想アルペ師列福へ
2023年03月15日グローバルネット2023年3月号
日本ジャーナリスト懇話会理事
森脇 逸男(もりわき いつお)
間もなくカトリック教会で、日本関係の聖人(福者)が生まれる。
その人は、スペイン人のペドロ・アルペ師だ。日本関係の福者は、キリシタン大名の高山右近以来ではないか。アルペ師は、もともとはスペインの医学生だった。たまたま訪れたフランスのルルドで、不治とされた病気が治って健康になる奇跡を見て、カトリックのイエズス会に入会、布教を志して、1938(昭和13)年に来日された。山口教会のドメンザイン神父が、教会拡充の資金集めのためスペインに戻られた後、山口教会の主任神父となり、目覚ましい布教活動を展開された。活動を紹介すれば切りがない。
神父の目はまず若い世代に向けられ、キリストの受難映画「キング・オブ・キングス」を子供や大人に見せるため、チャップリンやキートンの喜劇映画を抱き合わせた映画会を開いたり、近くの中学生を集めてクリスマスに演劇を上演させたりした。夏休みには東京の上智大学の学生を招いて、市内の小学生に「講道館柔道を大学生が指導します」というチラシを配ったところ、小学校長から安全に問題があると猛反対されて計画は挫折したこともあったが、教会の敷地の一角に弓の的場を作り、市内の高等女学校の弓道部員を招いて、試射させた。
1940年に日独伊三国同盟が締結された時は、スペインも加えて「日独伊西」大音楽会を市内の小学校の講堂で華やかに開催した。日本は山口師範学校の音楽教師の独唱、ドイツはイエズス会ラサール神父のチェロ、イタリアは名古屋サレジオ会チマッティ神父のオルガン、スペインはアルペ神父のドイツ歌曲、スペイン民謡の独唱など。文化に飢えていた市民が続々と詰めかけ、満員の盛況だった。
しかし、この活発な布教ぶりは、外部、ことに治安当局からは強い警戒の念を持って見られた。41年12月8日、太平洋戦争が始まると同時にアルペ師はスパイ容疑で山口憲兵隊に拘引された。
以来一ヵ月余りにわたって神父は厳しい取り調べを受けた。神父が帰って来ないクリスマスの日、私の姉は友人と一緒に憲兵隊の前の道を行き来して、神父の耳に届けと思いを込め、クリスマスの聖歌を歌った。後日、釈放の際、神父は取り調べに当たった憲兵から「あなたはいい信者を持っている」と言われたという。
その後、神父は広島市郊外のイエズス会修練院の院長となり、1945年の広島原爆の際は、多くの被爆者を修練院に収容して応急手当てに献身した。中国新聞社編の『検証ヒロシマ1945-1995』によると、「あの日、修練院は強烈な爆風に見舞われ、建物南側の窓ガラスは一枚残らず割れ、ドアというドアもすべて吹き飛ばされた。幸いにも負傷者はガラスの破片で顔にけがをした一人だけだったが、間もなく大やけどを負った市民が押し寄せ、修練院は80人もの人々でいっぱいになった。図書室、談話室、聖堂は病室に、院長室は応急の手術室と化した。医学知識のあるアルペ神父が陣頭に立って治療に当たった。傷口をガーゼで覆い、ホウ酸水で濕らして清潔に保つ。治療の効果があって修練院に収容された負傷者の中で亡くなったのは一人だけだったという。(中略)広島の被爆史からイエズス会外国人宣教師が献身的に百人近い被爆者の治療にあたった事実がすっぽりと抜け落ちている。ヒロシマの恩人はこうしたところにもいたのである。」ということだ。
1958年にはイエズス会日本管区長になり、1965年にはイエズス会総長に選出される。しかし、1981年8月、フィリピン旅行の帰途、脳血栓で倒れ、以後闘病生活を送ったが、1991年2月5日、ローマのイエズス会本部で逝去。享年83歳。
以来、広島、山口、東京で「アルペ神父の列福を祈る会」が生まれ、今年に入ってローマ教皇庁が列福調査に乗り出していた。