フォーラム随想生物は「生物―環境システム」だ
2023年02月15日グローバルネット2023年2月号
長崎大学大学院プラネタリーヘルス学環長 熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授
渡辺 知保(わたなべ ちほ)
ヘルス・サイエンスの分野でも医学生物学の分野でも、環境とは「主体の周りを取り囲むもの」として教えられてきたし、今もこの点は大きく変わっていないと思う。主体=生物(その中には私たち個々の人間も含まれる)と、客体=環境という明確な区別が原点にあって、それぞれはいわば役者と舞台のように独立した存在のようなイメージ、DNAの設計に基づいて組み立てられた生物が、置かれた環境に応じて機能を発揮するという理解が一般的なのではないか。しかし、こうした理解の仕方は、生物と環境との関係を理解するのに有用なのかどうかと疑問に思うことが多い。
生物と環境との「不可分性」については多くの人が書いている。システムズ・バイオロジーの立役者デニス・ノーブルの『生命の音楽』という本では、個々の部品が集合することによって、その集合のレベルで新たに現れる(emergeする)性質や機能があり、これが生命というものを理解するのに重要であることが強調される。生物学者、福岡伸一さんの『世界は分けてもわからない』という本は、生物をどんどん部品に分けていっても理解できないという話だが、不可分性についての問題意識は共通していると思う。
『生命の音楽』では、さらに、遺伝子そのものが環境(正確には、その遺伝子を持つ個体の祖先が生き延びてきた過去の環境)を反映しているという一見当たり前の事実を述べた上で、遺伝子は生命の設計図と呼べるものではないとしている。個々の遺伝子が、実際の人生(動植物の一生も含めて)で果たす役割が、個体が置かれた環境によってまるで違う場合がある。有名な例が鎌状赤血球遺伝子で、この遺伝子があると、赤血球が独特の「白玉型」にならずに、草刈り鎌のような形にひしゃげ、酸素を運ぶ力が低下してしまう。この遺伝子を、父母両方からもらうと(「ホモ接合」状態という)致命的な病気を発症するが、片親のみからもらった場合(「ヘテロ接合」)は致命的ではない。このヘテロ接合の人が、熱帯感染症であるマラリアに感染した場合には重篤にならず、マラリアの流行地域でこの鎌状赤血球遺伝子の出現割合が高いことが知られている(公衆衛生的介入が盛んな最近の状態はわからないが)。つまり、この遺伝子はマラリア流行地という環境では生存を有利にするが、非流行地域では持っていても何の得にもならない。どんな機能を発揮するかわからないものの設計図を持ってくる技術者はいない。遺伝子も環境とセットにしないと設計図として成立しない。
遺伝子に加えて、免疫や記憶は、出生前の環境から影響を受けるし、成人後を含めて人間のかかる疾病の原因の多くが、出生前の環境によるものであるという説―DOHaD仮説(成人病胎児期発症仮説とも訳されるが定訳がないようだ)―も広く支持を集めている。 このように人間を含む生物は、その祖先の過ごしてきた環境、あるいはその個体が発生してきた環境を反映した形で、この世の中に生まれ、それらが出生後の機能にも反映される。出生の後も、栄養、病原体、気候、接触する物質、社会環境、情報といったあらゆる意味での環境を文字通り「取り込み」、自分自身の構造を変えていく。そう考えると、どんな生命の中にも環境はくまなく入り込んでいるし、取り込まれる環境自体も刻々と変化する。つまり、私たちが見ている「生物」とは、設計図に基づいて組み立てられた「生物システム」ではなくて、46億年の過去から一秒前までにわたる過去の環境と生物とのやり取りを反映した「環境―生物システム」だといえるだろう。人間は他の生物と比べて、環境を変えてしまう力が著しく強い。人間も「環境―生物システム」であることを考えれば、私たちが環境を変えるとき、自分自身をも変えているということはよく肝に銘じておいた方がよいだろう。