特集/国境を越えた自然保護~世界の平和構築を目指して知床世界遺産と北方領土問題

2022年12月15日グローバルネット2022年12月号

横浜国立大学大学院 環境情報研究院 教授
松田 裕之(まつだ ひろゆき )

 世界各地で今、領土や希少な自然資源を巡って紛争が続いています。自然災害と異なり、戦争は人類が引き起こす悲劇であり、平和の鍵を握るのもまた人類です。例えば、南米のエクアドルとペルーは、長年にわたり「コンドル山脈」の領有を巡って領土紛争を繰り返しましたが、1998年に紛争地域を両国の自然保護区に指定することで合意しました。自然保護をてことして領土問題を解決した人類史上、初めての事例です。
 紛争とは無縁と思われがちな日本も、隣国との領土問題を抱えています。一朝一夕の解決が難しい問題ですが、自然保護を巡るさまざまな国際協調が「予防的平和」に貢献している事例は多数存在します。今回の特集では「国境を越えた自然保護」をテーマに、環境の視点から、平和を実現するためのアイデアや事例を共有します。

 

知床世界遺産登録時の勧告

知床は2005年に日本で3番目の世界自然遺産に登録された。その際に、審査に当たった国際自然保護連合(IUCN)から、知床はその近隣の島々と環境や生態が類似しており、日露両国で同意できるなら、近隣諸島を含めた「世界遺産平和公園として発展させる事も可能」と指摘された。

近隣諸島である国後島や択捉島は日本の領土であり、ロシアが実効支配している。拡張するとしても、ロシアと協議してはロシアの実効支配を認めることになる。

ロシアとの協議は、地元漁業者の希望でもあった。重要な漁業資源であるスケトウダラは、日露両国で漁獲している。知床世界遺産登録地科学委員会(以下「科学委員会」)では、信頼関係のある日露専門家同士が非公式情報も含めてスケトウダラに関する互いの認識を共有する。その上で、全体として効果的な資源管理策をそれぞれの国に対して提案すればよい。公式に情報を共有し、政府間で共同管理を実現しなくても、できることはある。知床世界遺産登録時の勧告は、それを推し進める根拠になり得る。

他方、勧告が外交関係を損なう恐れもあった。当初のIUCNの勧告案には「南千島」への拡張と述べられていたと報道された(山口香子特派員、読売新聞2005年6月4日)。これはロシア領であることを認める表現であり、日本側が容認できない記述である。しかし、最終的には「近隣諸島」という表現に落ち着いた。

その前の2001年1月に、ユネスコMAB(人間と生物圏)計画とIUCN共催のワークショップ「国後島、択捉島、歯舞群島、色丹島の自然保護協力」が東京で開催され、共同決議書が採択された。ロシアMAB国内委員会のバレリー・ネローノフ副委員長は、北方四島を日露共同の新規生物圏保存地域にと訴えたという。

国内でも、知床世界遺産の拡張を述べる意見がある。大泰司・本間『知床・北方四島』(岩波書店)によると、択捉島の北隣のウルップ島まで含めれば、日露双方の領土領海を含む登録が可能であるという()。

2021年にユネスコが登録したムール・ドラーヴァ・ドナウ越境生物圏保存地域(MDD-TBR)は、オーストリア、スロベニア、クロアチア、ハンガリー、セルビアにまたがる越境登録地であり、しかもスロベニア、クロアチア、セルビア間に国境未画定地域を含んでいるという(https://www.danube-iad.eu/docs/danube_news/Danube_News_25.pdf)。河川が国境となる例は数多いが、河川は時代とともに流路を変え、現在の河川と国境は必ずしも一致しない。いつの時代の流路が国境となるかは論争の種になり得る。それでも、流域圏の生物圏を保全することは各国共通の利益であり、かつ、国同士の連携がなければなし得ないことである。他方、水力発電ダムなど、河川は開発の対象でもあった。MDD-TBRでは、環境NGOが流域生態系保全の取り組みを続け、各国が保護する越境保護区を実現した。

知床世界遺産の拡張も国境紛争地域を含んでいるが、ロシア領のウルップまで含めれば、全く不可能とはいえないかもしれない。

北方領土ビザなし研究交流

ロシアは、1992年からおおむね毎年、北方領土の旧島民に対し、ビザなし渡航を認めている。それと同時に、ロシア人専門家との共同調査もビザなしで認めている。このような交流があるからこそ、スケトウダラ資源や絶滅危惧種のトド個体群の科学的評価での日露専門家の連携や世界遺産の拡張を具体的に構想できる。

知床世界遺産の上記の登録勧告を受けて、日露隣接地域生態系保全協力ワークショップが、日露両政府の合意に基づいて2009年から開催されている。

それらとは別に、オホーツク海の豊かな一次生産力を支えるアムール川流域の生態系を「巨大魚付林」とみなす総合地球環境学研究所の研究プロジェクトが母体となり、アムール・オホーツク・コンソーシアムが組織されている。その国際ワークショップでは、アムール川流域の生態系とオホーツク海の関係を解明するため、関係する日中露の専門家の協力関係と情報共有を強化する共同声明が合意された。さまざまな制約の多い中露両国での現場調査の経験を持つ日本の生態学や海洋学などの研究者が、先方の研究者とともにネットワークを築いていることは貴重である。

知床世界遺産拡張と領土問題

世界遺産拡張は、北方領土返還運動とは別の問題である。知床と近隣諸島の生態系を一体のものとして将来に遺す意義は、IUCNも指摘した大義であり、それをどの国が担うかとは別の問題である。そこには日本の領有権主張とロシアの実効支配という問題があるが、ビザなし交流が人道的配慮で実施されるのと同様に、日本はロシアと何らかの形で、知床と近隣諸島との生態系保全を目指す大義を得たと言えるだろう。逆に言えば、この問題を領土問題と絡めるべきではなく、領土問題という双方の国益を超えた大義を語るべきなのだ。

ユネスコは加盟国の意思を尊重する。領土返還運動と絡めず、領土係争地域であることを認めたまま、共同調査、共同管理を進めることを歓迎するはずだ。

日本生態学会は、2003年に尖閣諸島に放たれた野生化ヤギが植生を損なっているとして、その対策を求める意見書を送った。他国も領有権を主張しているが、当地の生態系の危機を認識した学術団体として、それが招く未知の政治的影響に忖度することなく意見を述べた(ただし、提出先は日本政府であった)。その後、東京都が私有地だった尖閣諸島の購入を計画し、2012年にノヤギの調査を実施した。結局同年9月に政府が当地を購入して国有化したが、国際的には混迷を深めたかもしれない。

科学外交と越境遺産

科学外交(Sciencediplomacy、科学技術外交)とは、外交を通じて科学者の交流を深めること、逆に科学者の交流を通じて友好関係を築くことに加えて、科学的知見に基づく外交問題を進めることを含む概念である。典型的な例は、酸性雨問題で英国と北欧諸国が越境汚染対策に合意した長距離越境大気汚染条約(1983年採択)である。

科学的知見が常に平和や友好を促すとは限らないが、科学者が自身の属する国益のためでなく、科学的真理と人類の繁栄のために行動するならば、科学的知見は、酸性雨問題のように見過ごされていた問題を両国の科学者で共有し、その解決に貢献することができるだろう。現実の国際関係の中で、時として政治的に逆効果になる恐れはある。けれども、真理にふたはできない。迷った場合には結果を顧みず、国益と離れた立場で意見を述べることが、科学者の役割だろう。

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