フォーラム随想音のないテレビ番組
2022年11月15日グローバルネット2022年11月号
長崎大学大学院プラネタリーヘルス学環長
熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授
渡辺 知保
深夜のテレビをなんとなくつけていたら、日本の美しい山々の景色を次々と見せる番組になった。それがかなり長い間続いた後に、今度はヨーロッパのトラム紀行とかいう番組になって、これまた延々とトラムから見える景色だけが流れる番組になった。2つの番組とも、音声が音楽だけ、それもあまりビートなど感じさせない、黙ってそこに流れているだけの(というのも変な表現だが)音楽だけで、解説やその場に聴こえているであろう音も一切入っていない。「開聞岳」と「聖岳」という2つのタイトルの映像を夜ふかしの家族と見ていると、次々と疑問や想像が湧いてきた。遠方に見えている景色はどこなのか、この樹々の苔むし方はよほど雨が多いのだろうか、倒木がこんなに多いのはなぜなのだろうとか、この木を組んだだけの橋はどんな頻度で架け替えているのだろうか、誰がそれを気にしてくれているのだろうか、なぜ開聞岳はこんなに美しい形なのかとか…説明が一切ないので、疑問は解けないし、想像は想像のまま浮かんで消えるのだが、そういう状態に慣れてくると、それがなんとなく心地よいような気がしてきた。
多くのテレビ番組は音と映像とを組み合わせてメッセージを伝えるので、ただただ映像(と存在感のない音楽)が流れ続ける番組というのは、一種の不完全さを抱えている。しかし、そこに説明や答えがない、という状況が、逆に心地よさの秘密なのかも知れない。考えてみれば、私たちが日常見ている風景というものにはどこにも説明がない。ただ、人間のいる光景を見慣れている私たちは、無意識のうちに「説明」に目や耳が行きがちなのかも知れない。音の無い番組は私たちの「解答好き」病を癒してくれる気がする。
あえて普通のテレビ番組を音無しで見てみると、それはそれで面白い。かなり語気強く話しているように見えても身体が動かない人もいれば、話している間じゅう、上半身の停止する時間がほとんどないような人もいる。聞き手の方もしきりにうなずく人がいたり、話し手に穴が開きそうなほどの視線を送っている人もいる。
音を消してテレビを見ていると、話の内容や文脈、声や口調、揚げ句には話し手や聞き手の性格までを想像したり、動きの癖を見出したりすることになる。100人の人が同じ番組を音入りで見た時と、消音で見た時の受け取り方に、それぞれどれほどのバラエティがあるのかを比較してみたら、後者の方が多様性に富んでいるに違いない。それは情報という意味では、曖昧さが大きいということに過ぎないのかもしれないが、それがもたらす「経験」という意味では、どっちが「豊か」なのか、判断が難しいように思う。
昔、カラーテレビが世の中に出始めて、近所や友達の家がみんなカラーに買い替えている中、父は「墨絵の美しさがある」とか言って白黒テレビを手放さなかった。ある日、父の友人たちが集まって、この白黒テレビで対談番組を見ていた。今ならまあ、お目にかかることのない光景だが、対談している作家がタバコをくわえていた。そのタバコの吸い口のところは、実際わずかに黄色いのだが、誰かが、黄色っていうのは白黒テレビでもやはり黄色く見えるんだねぇと言い、みんながそうだねとうなずいていた。半世紀以上たった今も、その吸い口は確かに黄色に見えたという印象を不思議とよく覚えている。
私たちは、日常接する「環境」の多くを「情報」として認識している。ここに挙げた視覚情報に限らず、環境からやって来る情報の意味とか価値とかは、一つの物差しでは測れないのかもしれないと思う。不完全な、あるいは乏しい情報と思っているものほど、われわれに想像を許し、思考を促すことによって、経験を豊かにしてくれる側面があるのかもしれない。