21世紀の新環境政策論~人間と地球のための持続可能な経済とは第52回 大学での合同シンポジウムと私の最終講義

2022年03月15日グローバルネット2022年3月号

武蔵野大学教授、元環境省職員
一方井 誠治(いっかたい せいじ)

私事ですが、私は大学を卒業して1975年に環境庁(当時)に入庁して以来、環境行政を中心に30年間行政の仕事をし、2005年からは京都大学で、また、2012年からは武蔵野大学で計17年にわたり環境問題に関わる教育研究を行ってきましたが、おかげさまで、この3月で無事定年退職することとなりました。

有難いことに、このタイミングで武蔵野大学のしあわせ研究所と通信教育部による「持続可能性2030年の未来に向けて~「しあわせ学」の前進~」というテーマで合同シンポジウムが開催されることになり、特別基調講演とその後のパネルディスカッションのパネリストのお声掛けをいただきました。

実は、武蔵野大学は、かねてより「世界のしあわせをカタチにする」というブランドステートメントの下、しあわせ研究所を設立するとともに、2021年度からは、持続可能な開発目標(SDGs)を全学的に教育研究に取り入れており、私も学部の新入生を対象に始まった新たな科目の一つである「SDGs基礎」を担当しました。そのような経緯もあり、私にお声掛けがあったものと思いますが、図らずも、これが武蔵野大学での私の事実上の「最終講義」となりました。

私の最終講義

せっかくの機会を頂きましたので、私の講演のテーマは、「幅広い視点から改めて持続可能性とは何かを考える」としました。ごく簡単にポイントをまとめると以下のとおりです。

  • 自分は、かねてより自分自身のしあわせには、「人間の社会の中でのしあわせ」と「人間が自然と向き合うしあわせ」の二つのカテゴリーがどうしても必要と考えてきたこと
  • それが、高度経済成長期を通じて、前のカテゴリーは増大するのに後のカテゴリーは減少する一方であることが実感され、それが環境行政を目指す動機となったこと、しかしながら同時に人間には建前と本音などの二面性があり、必ずしも自然と向き合うしあわせは優先されない傾向があることなどを感じてきたこと
  • また、都市化などによる人間の自然離れの大きな流れが、環境保全を求めるインセンティブの保持の大きな支障となることが懸念されること
  • 持続可能性の定義としては、1984年に国連に設置された世界委員会(通称ブルントラント委員会)の定義が有名だが、これは具体的な人間の行動指針としてはあいまい過ぎて役に立たないと感じてきたこと
  • それに対して、米国の環境経済学者ハーマン・デイリーの持続可能な発展の3原則は再生可能資源をベースとし、自然資本の役割を重視する、いわゆる「強い持続可能性」の考え方に立っており、持続可能性という点では極めて明快な指針と考えること
  • ただし、現実の世界は人工資本で自然資本は代替できるという「弱い持続可能性」の考え方によっており、国連のSDGsもその点では問題があること
  • 自分としては、これまでの「弱い持続可能性」のパラダイムから「強い持続可能性」のパラダイムに転換していくことが必要であり、そのためには、地球の環境上の限界(プラネタリーバウンダリー)について人類自らが制約を課していくことが現在の文明の持続可能性を高める鍵となると考えること

シンポジウムでの私の問い

パネルディスカッションでは、私の他に、仏教学の専門家であり本学の学長でもある西本照真先生、哲学の専門家で日本哲学会の会長でもある一ノ瀬正樹先生、環境教育の専門家であり国連大学サステイナビリティ高等研究所の野口扶美子先生というそうそうたるメンバーとご一緒しました。

私もこれまで多くのシンポジウムのパネルディスカッションに参加をしてきましたが、どちらかというと環境問題の専門家との同席が多く、このようなメンバーでの討論は大変新鮮で得難い経験でした。

西本先生には、仏教をはじめとする宗教には、環境や資源問題、さらには貧富の格差などをもたらす人間の飽くなき欲望の抑制は可能なのだろうかとの質問をさせていただきました。西本先生は何不自由のない暮らしをしていた釈迦が、あえてそこを離れて仏教を始められたお話も交え、特に、日本の仏教には、「草木国土悉皆成仏そうもくこくどしっかいじょうぶつ」というように人間中心主義でない、人間以外の生命のみならずそれらを支える環境のすべてを思う心があることを語っていただきました。

野口先生には、環境教育の専門家として、現代の若者をはじめとする自然離れを環境教育で食い止めることが可能だろうかという質問をさせていただきました。野口先生は、環境教育はあくまでツールであって、目的そのものではないこと、自然離れについては人間が自然と関わりをきちんと持てるような社会構造が必要だということを語っていただきました。これは私も大変ふに落ちました。日本の里山の風景はエネルギーを得るための薪炭林として経済的なつながりがあったからこそ維持されてきたのであり、それを形の上だけ維持することには無理があると私も感じていたからです。

一ノ瀬先生には、哲学の専門家として、原子力やバイオ技術などの科学技術の進展は、持続可能な社会の構築にとってどのように考えたらよいかという質問をしました。私は基調講演の中で、原子力発電は、ハーマン・デイリーの原則からいってもこのような技術は廃止すべきこと、江戸時代の限られた資源・エネルギーでの社会は、持続可能な社会という点で、現代の社会が学ぶべき点が多いことを強調していました。

これに対し一ノ瀬先生は、原子力発電については、もちろん問題のある技術であり廃止できるならするべきであろうけれども、現実にはフランスをはじめこれからさらに建設を進める国も多く、廃止は現実的ではないこと、そうであれば、現在の技術上の問題を極力技術の向上で解決していくこと、例えば小型原子力の技術などを追求していくことが大事ではないかとのお答えを頂きました。また、江戸時代については、寿命が40歳くらいであり、トイレなども不潔であったことなどを挙げられ、そのような時代に戻りたいかどうかという価値観の問題であるとのご指摘を頂きました。

これについては、なるほど、私の物言いは、そのような反論をしたくなるようなものだったと反省し、次のような補足説明をしました。原子力発電をドイツがなぜ、実際に廃止する決断をしたかという理由として、コスト問題、事故の問題、テロの問題があり、特に、経済的な合理性という観点からは極めて理にかなった決断でもあったこと、米国、英国、フランスなどが原子力発電の廃止ができない背景には、原子力発電と不可分な核兵器の所有の問題があることです。

また、江戸時代については、決して江戸時代の生活そのものに戻ろうということではなく、江戸時代の資源・エネルギーの制約という社会経済の基本システムに、これまでの科学技術で解決できること、例えば、江戸時代の死因で多かったといわれている感染症などについては、現代の薬を使うなど、いわば、持続可能な社会の観点から、江戸時代と現代の「いいとこ取り」をすればよいのではないかという話をしました。

また、トイレの話については、一ノ瀬先生の不潔という概念がふん尿を畑にまいていたということを指しておられたのかどうかはわからなかったのですが、子どもの頃、家の近くでも多くの畑があり、集められたふん尿は肥だめに入れ発酵させた上で使用していた記憶があることなどをお話しました。ただ、いずれにしても、一ノ瀬先生の率直なお答えは、今後の私の活動を考える上でも大変参考になり、感謝をしています。

持続可能な社会実現への道

最後のあいさつで、仏教教育部長の岩上和敬先生が、私の話に理解を示してくださり、「あえて太陽エネルギーの範囲で暮らす社会を目指したい」と言っていただいたのは、大変うれしいことでした。

シンポジウムの当日は、ロシア軍のウクライナ侵攻の当日でもありましたが、この事態の一刻も早い終息を願うとともに、望むらくはこの事態がロシアの天然ガス依存ではない、再生可能エネルギー中心の社会への移行を加速化することにつながればと願っています。

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