地域から世界を見つめる今、水俣を知るべき理由~地球環境問題の解決のために

2022年01月17日グローバルネット2022年1月号

(一財)地球・人間環境フォーラム
鈴嶋 克太(すずしま かつひろ)

 1992年の「国連環境開発会議(地球サミット)」で採択された、持続可能な開発についての行動計画「アジェンダ21」に地域社会主導の取り組みの重要性が盛り込まれてから、今年で30年。そこで、今年最初の特集は「地域から世界を見つめる」というテーマを掲げ、地域市民である私たちが地球規模の問題に立ち向かうため、「地域を知り、地域で学ぶ」ことについて考えます。
 昨年、公式確認から65年を経た水俣病について、理解をさらに深め、私たちが今後考えるべきことを探るため、現地で関係者に取材しました。さらに、地域の環境について学び、失ってしまった自然に対する感性を取り戻すことが重要だと唱える「鹿児島環境学宣言」や、奄美群島での自立的発展に向けた取り組みから、今後のより良い社会・環境のために、私たちは地域社会から何を学び、どのような価値観を持ち行動を変革していくべきか、考えます。

 

熊本で生まれ、小中の校外学習で公害の原点・水俣病を勉強した私は、弊誌特集の中でこの問題を何らかの形で取り上げたいと考えていた。昨年10月、映画『MINAMATA─ミナマタ─』を鑑賞した後、「水俣病の歴史をさらに知りたい」との思いを強くした。水俣病事件を通して、日本人が今、何を考えるべきなのか。現地を訪問し、関係者に行ったインタビューを基に考える。

辺境へのしわ寄せ

水俣病の公式確認は1956年。その後、1968年の国による正式な公害病認定、それを受けて第一次訴訟が始まるのは1969年と、10年余りの空白がある。

原因究明が遅れた背景について、水俣市立水俣病資料館の中牟禮和也さんは「公害発生以前から、水俣にはチッソ(水俣病の原因企業)の幹部社員、同社の工員・一般社員、それ以外の労働者・漁民、という階級意識があったといわれている。最初の患者の確認が、チッソとは関係の薄い漁村で起こったため、患者救済よりも企業活動の維持拡大が重視されたのではないか」と言う。熊本学園大学・水俣学現地研究センターの田尻雅美さんも同様に、「当時の日本は、一地方の人びとに経済成長のしわ寄せを背負わせた。政治経済の中心から離れた地方の漁村で起こった水俣病は無視された。その根本には人権侵害があった」と語る。

この「辺境の人びとへしわ寄せが行く」という構造は、現代の地球環境問題でも変わらない。例えば気候変動の悪影響を真っ先に受けているのは、経済的に貧しい国や地域に住んでいる人や、農業や漁業に従事し、自然に寄り添って生きて来た人びとである。一方、経済成長を享受している人びとへの影響ははっきりと現れない。故に、原因の特定や対策が遅れてきたのである。

労働力の搾取

1959年の会社と被害者間の見舞金契約以降、水俣病は「解決したこと」と地元では認識され、被害者は、たとえ症状が出ても隠そうとする、あるいは誰にも助けを求められない状況になっていた。この状況を大きく変えたのが、チッソ水俣工場の第一労働組合による、1968年の「恥宣言」である。

明治の操業開始以来、爆発事故や労働災害の多さ、非学卒者の低賃金など、水俣工場の労働環境は劣悪であった。1960年代の産業構造の転換に伴い、水俣工場の縮小・人員整理を迫られた会社が、1962年に「安定賃金」を提案。それは、4年間の賃金を前もって決める代わりに、組合の争議権を奪うというものだったため、組合は拒否。会社は組合を二つに分裂させ、第一組合は183日に及ぶ大争議「安賃争議」に突入した。争議後、会社からありとあらゆる筆舌に尽くしがたい嫌がらせを受けた第一組合員は、「労働者の命や生活を破壊する会社の論理は、地域に対して公害を起こし、被害者の苦しみを無視する会社の論理と同じ」、「自分の苦しみは患者さんの苦しみと同じである」と気付き、徐々に患者支援に動いていく。そして、1968年、組織として患者との共闘を宣言する「恥宣言」を出すに至るのである。

「労働者も地球環境も搾取の対象である」として、労働災害と地球環境の破壊が、同じ資本主義の資本蓄積の論理から生じていることを看破し話題を呼んだ『人新世の資本論』(著・斎藤幸平)が記憶に新しい。この問題意識が50年も前の一地方の工場労働者の間に生まれていたこと。そして、彼ら自身、日々の生活が厳しかったにも関わらず、自分の会社の行いに対して立ち上がり、患者と共闘したという歴史は、日本人の多くが知らないのではないだろうか。

「公害」とは何か

取材では、水俣市の隣・津奈木町にあるつなぎ美術館で開催されていた企画展『ユージン・スミスとアイリーン・スミスが見たMINAMATA』も訪れた。水俣病に対するさまざまな負の感情が残る同地域において、初めて開かれたユージン・スミスの写真展だ(※ 写真展開催の経緯については、今月号「フロントー話題と人」参照。)。とくに印象的だったのは、学校の運動会で、子どもたちの元気な姿を写した写真。被害地域の人は、いつも苦しみに沈んでいたわけではない。いつも闘争していたわけでもない。来場者は、それらの写真に、自らの子ども時代や今の日常生活を重ねたことであろう。

この写真展を企画した同美術館の楠本智郎さんは次のように語る。「写真集『MINAMATA』は、世界に水俣病のことを知らせる必要があったためセンセーショナルな写真が多い。しかし、子どもが大好きだったユージンは、下校中の風景など地域の日常もたくさん撮っていた。運動会、海水浴、登下校など今の私たちと何ら変わらないありふれた日常。そこに突然、有機水銀による被害が起こり日常を奪い去った。福島の原発事故のように、突如として日常が奪われる事態は今でも誰にでも起こり得る」

私たちは「公害=過去に起こった出来事」と考えがちだが、そうではない。一見豊かな日常生活に忍び寄り、知らず知らずのうちに私たちの健康と命を脅かすもの。とすると、地球温暖化、化学物質、プラスチック、食生活に起因する健康問題などは、すべて公害といえる。ユージンの写真を見ると、そう考えさせられる。

「水俣の教訓」とは

水俣病に関する政府の資料には、「水俣の教訓を活かす」という言葉が頻出する。そこでは、「当時は有機水銀説を否定する学者もいて、原因究明が遅れたため、被害拡大を防げなかった」という記述はあるが、国の委員会の構成が有機水銀説に否定的な学者に偏っていたこと、その背景に経済最優先の方針があったことは省みられていない。昨年の第六次エネルギー基本計画の策定、国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)における政府の姿勢を見ても、同じことが繰り返されていると感じる。この点において「水俣の教訓を活かす」という誓いは、いまだ果たされていない。

そもそも「教訓」という言葉が適切なのだろうか? ある経験から教訓を引き出すとき、教訓化されなかった側面は忘れ去られる。だからこそ、「『教訓』ではなく『考証』こそが必要」と訴えるのは、一般財団法人水俣病センター相思社の永野三智さん。「『何が失敗だったのか』を捉えきれておらず、本当の解決ができていない水俣病は、簡単に『教訓』化できない。文献や資料を基に考え続けることが、水俣病を二度と繰り返さないためには必要だ」という。

安易な「教訓」化を拒むような無数の出来事や証言記録を前に、敢えて「水俣の教訓」と言うならば、それは「多くの日本人が恩恵を受けた経済発展を背景に、原因究明・解決への努力が遅れ、多くの人が被害を受けたこと。そして、その背景がいまだしっかり省みられていないこと」であろう。その上で現代の地球環境問題を考えるとき、つき付けられるのは、「経済優先の社会で、少しでも安くて便利なものを求める私たちこそが、その被害者であり加害者である」という現実である。それら諸問題の解決には、市民・ビジネス・行政、すべての立場の人がこの現実を直視し、個々の良心に従って、「経済最優先」の観念に抗い行動することが必要ではないだろうか。

水俣病資料館に隣接する水俣メモリアル。そのガラスの噴水越しに不知火海を眺め、水俣で起きたことに思いをはせるとき、そこに映るのは他ならぬ自分の姿である。

水俣メモリアルにて(2022年1月2日筆者撮影)

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