食卓からみる世界-変わる環境と暮らし最終回 未来につなぐアイヌの食と文化

2021年10月15日グローバルネット2021年10月号

平取アイヌ文化保存会
貝澤 美和子(かいざわ みわこ)

沙流さる川流域沿いに集落が点在する平取町は、北海道でも最もアイヌ系住民が多く、アイヌ文化も伝承されています。平取町の魅力は、ここに住む人たちと周りに広がる自然、この北の大地が与えてくれる野菜であり、山菜です。日常の中にアイヌ文化とシサㇺ(和人)の文化が共存していて、自然にアイヌの食材や料理と出会うことができます。直接海と接することのない生活では、やはり山のもの、中でも植物との接点が多く、食用に薬用にと常時利用しています。庭の畑には野菜があり、裏山に行けば山菜があり、まさに火に鍋をかけてから食材を調達できる、という恵まれた生活をしています。人はそこにあるものを食べて暮らすのが心身共に一番良いことだと思います。

現在の私たちの日常生活の中で、食文化は、今でも残っている数少ないアイヌ文化の一つです。平取町は、明治になってシサㇺが移住してきて、アイヌとシサㇺの共存が進みましたが、その文化の共有はなかなか進みませんでした。

一方的にシサㇺの文化がアイヌ社会に入り込んで、アイヌ文化がどんどん消えていく中で、食文化に関しては、各家庭の中で地味にではありますが守られてきました。途中第二次世界大戦のための食糧難などの時代背景もあり、豊富にあったアイヌの山菜を食べることでシサㇺの家庭にアイヌの食文化が反映された時期もあったことは、実に興味深いことです。ただ、戦後、日本食ばかりでなく、欧米の食文化の乱入によりアイヌの食文化は、次第に影を潜めつつあります。

しかし、30年ぐらい前からアイヌ文化の普及活動が広がるとともに、平取アイヌ文化保存会で、アイヌの先輩たちから食について学び、年に数回、各行事の際などに、アイヌ料理の実践を行っています。

●山菜が支えるアイヌの食文化

昔は春になると、アイヌの女性や子どもたちは総出で山菜を採り、乾燥保存して、汁の具にしました。山菜採りは主に女性や子どもの仕事でした。山菜に関しては、シサㇺの侵略が少なかったため、今もなお日常に伝承されて、一貫して食べられています。

春の最初の収穫はマカヨ(フキノトウ)で、道端にあるので楽に採れます。一般に、天ぷらやフキ味噌などにして食べますが、昔からアイヌの人たちは新芽はあまり食べずに少し大きくなってから花や葉を除いて茎を煮て食べました。マカヨやコㇿコニ(フキ)の根は、西洋医薬が普及する前は麻疹の薬としても用いられました。

雪が残る山々の日当たりの良い斜面で採れるプクサ(ギョウジャニンニク)は、長い冬の間、緑に飢えていた人たちにとっては季節の便りとなるとともに、格別なごちそうです。他の山菜より栄養価は高く、昔からハルイッケウェ(食べ物の背骨)といわれるほど重要で、アイヌの健康のために欠かせない食物でしたが、その強いにおいのせいで差別の原因にもなり、食べたがらないアイヌの人たちも増えてきました。

プクサキナ(ニリンソウ)は、一般にはあまり知られていませんが、昔から私たちの地域では最も多く食べられた山菜でした。比較的平らな所に群生しているので、誰でも容易に採ることができます。「昔は、イチャサラニㇷ゚(収穫用背負い袋)いっぱいにプクサキナを採ったもんだ」とフチ(おばあさん)はよく言います。乾燥させて、一年中肉や魚のオハウ(汁)の具として使われ、強い味やにおいもなく、オハウキナ(汁の草)ともいわれていました。

イチャサラニㇷ゚(収穫用背負い袋)を背負う女性

かつて、アイヌの毎日の食事は穀物とオハウだけというのがほとんどでした。そのオハウにはカㇺ(肉)やチェㇷ゚(魚)とともにいろいろなキナ(山菜)が使われました。よく使われたキナには、プクサ、プクサキナ、ソㇿマ(コゴミ)、コㇿコニなどがあります。料理の味付けはほとんどが塩だけでした。塩は、交易で手に入れるか海水を煮詰めて作っていたので貴重品で、保存にはあまり使われませんでした。料理法はほぼ煮るか焼くかで、油で炒めるなどの料理法はなく、油は動物や魚から採って香辛料として使われました。

差別が激しかった1900年代の前半は、同じ土地にある山菜でも、アイヌとシサㇺでは食べるものが違っていました。開拓に入ってきたシサㇺは、自分たちになじみのあるミツバやセリを好んで食べましたが、アイヌが食べるその他の土地のものはあまり食べようとしませんでした。ミツバやセリに関してはアイヌはあまり食べる習慣がありませんでしたが、たくさんある山菜なので、当時のアイヌの子どもたちは、このミツバとセリを採ってシサㇺの人たちのところに持っていくと、駄賃がもらえたそうです。チマキナ(ウド)については、アイヌとシサㇺでは食べる時期が違っていました。当時のアイヌの人たちは、新芽よりも、5~60㎝ぐらい育った茎を焼いて皮をむいて食べ、新芽をウド、大きくなったものをチマキナと、呼び名も使い分けていました。

昔は6月の中頃になると家族総出で山に行き、トゥレㇷ゚(オオウバユリ)を掘って、その根をいてイルㇷ゚(デンプン)を取り、乾燥させて食糧や腹薬にしました。トゥレㇷ゚もハルイッケウェといわれ、食べ物の中心になる重要な植物と考えられていました。

秋には木の実など多くの山の恵みがあり、一押しはシケㇾペです。シケㇾペはキハダの木の実ですが、まさに食べる薬です。黒く熟した実を乾燥保存して、穀物や豆と一緒に煮込みます。その独特の香りと味は、アイヌ料理の中で私のナンバー1です。薬効にも優れていて抗菌作用、健胃作用があります。アイヌの食生活の中でも重要なもので、シケㇾペニ(キハダの木)が多い所には地名として残され、後世に伝えられました。

●やっと広がってきた、学校でのアイヌ文化学習

40年ほど前から家業の農業でアイヌの食材の栽培育成を実践してきました。アイヌは狩猟採集民族と考えられていますが、縄文時代ごろから主に雑穀の栽培をしていました。畑は全面耕さないで、種をまく所だけを耕して、地力に任せて作り、2~3年したら畑を移動して栽培しました。私たちは、シプㇱケㇷ゚(イナキビ)、ピヤパ(ヒエ)、ムンチロ(アワ)などの雑穀を作りましたが、現在は、最もおいしくて需要もあるシプㇱケㇷ゚を栽培しています。近くの二風谷にぷたに小学校でも、20年ぐらい前からやっとアイヌ文化の学習が始まり、指導を頼まれました。春に小学校の小さい畑に子どもたちと一緒にシプㇱケㇷ゚の種をまいて、秋に、昔のようにピパ(貝)を使ってイチャ(刈る)して収穫しました。それをニス(臼)とイユタニ(杵)で精白して、シト(団子)を作って食べました。半年がかりの学習でしたが、それぞれの作業に一喜一憂している子どもたちや先生たちを見ていると、やっとここまで来たかと感慨深いものがありました。

イユタ(物を搗
つく)の様子

かつてアイヌ民族だけが住んでいた北海道では、シサㇺの移住とともに学校教育が始まりましたが、アイヌ文化の学習は100年以上も遠ざけられていました。最近になってやっとアイヌ文化が見直され、学校教育の中でも言語やその他の文化も、少しずつではありますが、取り入れられ、広がってきています。

本連載は今回が最終回となります。

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