日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第47回 漁業権放棄後も続く自由漁業のアナゴ漁―東京湾・横浜子安浜

2021年02月15日グローバルネット2021年2月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

横浜から東京へ向かう途中の京急子安駅を降り、東京湾に向かって歩いた。古い住宅街を抜けると、首都高速の高架を前にした運河の風景。そこは漁船や台船などの船だまりになっていた。50年前に漁業権を放棄した子安浜はタイムスリップした大都会の秘境のようである。現在もアナゴ漁などが営まれている。

子安浜の船だまり

●パイプ沈めアナゴ捕る

アナゴ漁に使う塩化ビニール製のパイプ

平日の午後で人通りがない浜通りを歩くと、道路沿いに小屋が立ち並ぶ。以前は漁具などを入れていたのだろうが、今は車庫に使われている。2階建てビルの横浜東漁業協同組合の事務所に着くと、常務理事の秋元靖教さんから話を聞くことができた。

子安浜にあった子安浜と西神子安浜の2漁協は、地先の大黒ふ頭、扇島東ふ頭埋め立てに伴って1971(昭和46)年に漁業権を放棄した。その後合併して現在の横浜東漁協となった。200カイリ問題を契機に79年から漁船や漁具を持っていた人たちが再び自由漁業でアナゴ漁を始めた。オイルショックなどの経済不安もあって、アナゴ漁は漁業者の生計を支えた。

漁業権放棄から半世紀が経過し、400人ほどいた組合員は脱退や死去などで数が減り続ける。現在漁に出るのは28人。アナゴ漁をしている漁船は11、12隻だという。

テレビ番組などでも紹介されているアナゴ漁は、餌のイワシやイカを入れた塩化ビニールパイプを海に沈める「アナゴ筒漁」。午後2時ごろ漁に出てパイプを海に沈め、翌朝引き上げる。捕ったアナゴはいけすに入れて横浜や豊洲、川崎南部市場などに持っていく。「冬場は少なく、4月から5月6月にかけていいものが捕れます。1日30kg捕れればいいのでは。値段は1kg1,800円から2,000円くらい」と秋元さんは説明した。

アナゴ漁の他にも一本釣り、刺し網、投網もしている。夏はスズキのほかクロダイ、アジがかかる。

●汚染や埋め立てに抗議

横浜東漁協では現在、共済、指導事業、購買、販売の業務や種苗放流をしている。秋元さんは「漁業者たちの生活のよりどころとして存続してきた」と漁協の存在意義を強調する。

詳しい歴史を尋ねると、一冊の本を見せられた。『無からの出発 東西興業20年の歩み』(1992年刊 非売品)。組合長を務め、後に起業した鈴木武助氏がまとめた。冒頭、「…海は闘争の相手であり、仕事場であり、あるいは敵でさえあった」とヘミングウェイ著『老人と海』の一節から始まり「主人公の老漁夫サンチャゴの姿の背後に、子安の漁師の姿が見える」と続く。

鶴見川の南西に広がった遠浅の子安浜の漁は記録にあるだけでも700年近く前にさかのぼる。海の幸に恵まれた「宝の海」だった。東京湾は江戸時代から埋め立てが始まり、太平洋戦争後の経済成長で水質汚染が深刻になり、工業用地確保のための埋め立てラッシュが追い打ちをかけた。川崎から横浜までの海岸線はわずか20年ほどですべて埋め尽くされた。

京浜工業地帯の中ほどにある子安浜は、周辺の海の埋め立てが進むにつれて漁場が狭まり漁獲も減った。漁業者たちは20万トン超のタンカーが航行する海で漁を続け、漁業の存続を願った。だが、ついに精根尽きて漁業権放棄に調印した。「最後の漁の日、あと1分でもいい、1秒でもいい、船にのっていたい、このまま海に残りたいと心の中で号泣していた」と鈴木さんはつづっている。

埋め立てで造成した大黒ふ頭には、400人近い子安浜の漁師全員の名前が刻まれた碑がある。碑文は「父祖の労苦に感謝し、併せ子孫の繁栄を祈願しつつ…」と無念と次世代への思いが込められている。

横浜東漁協創設当時から勤めてきた秋元さんは「もう皆が集まる機会もありません。取り立てて今後の計画というものもないのです」。埋め立ては今後も続くと地図を示しながら教えてくれた。

●大消費地に近い優位性

秋元さんから「横浜の漁業を知るには、柴漁港も見た方がいい」と勧められ、子安から40分ほどかけて南西部にある横浜市漁業協同組合柴支所を訪ねた。電車で金沢八景から金沢シーサイドライン「海の公園柴口駅」へ着くと、歩いてすぐの場所だった。横浜市南部では漁業権放棄の後、四つの漁協は横浜市漁業協同組合に統合され、本牧、金沢、柴の漁協支所となった。それぞれに漁港があり、中でも一番規模が大きいのが海の公園(金沢区)近くの柴漁港。小柴の地名で親しまれる柴支所(組合員109人)を訪れたときは夕刻で出荷作業がにぎやかだった。港を見ると底引き網漁船がずらり停泊し壮観だった。首都圏の中にあって交通の便も良く、直売所(コロナ禍の影響で休業中)や新鮮な魚を使った天丼や煮穴子丼を出す人気の「小柴のどんぶりや」(金~日曜日営業)が知られている。漁は底引き網、アナゴ筒、刺し網を中心にしており、ヒラメなどの稚魚放流や藻場造成など漁場維持にも取り組んでいる。

埋め立て前に盛んだったノリ養殖は見られなくなり(隣の金沢支所では存続)、たくさん捕れていたシャコも資源回復が難しく禁漁中だ。かつて景勝地として知られた金沢八景は、複合型海洋レジャー施設が造成されるなど大きく変貌した。「埋め立て目的が大企業の工場用地型から都市再開発=福祉複合型へと軌道修正されていく典型的な途」(『東京湾の環境問題史』若林敬子著)とあるように東京湾開発の目的も時代とともに変わった。

再び子安浜近くに戻って宿泊し、翌朝は鶴見川西岸に近い生麦魚河岸通りの朝市へ出掛けた。幕末に薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件の現場に近い。戦後の闇市から始まり、全盛期には160軒もあったという鮮魚店は20軒ほど。すし店などの仕入れ先として繁盛したというのは過去の話のようで、店に並んだ鮮魚も地元のものはほとんどなかった。

生麦魚河岸通りの鮮魚店

横浜の海は『横浜市歌』(森鴎外作詞)に「むかし思えば とま屋の煙」とあるように、かつてはのどかな漁村風景があった。改めて子安浜や生麦の記録をたどると、戦後も遠浅の浜に漁船や海水浴客の姿が見られるなど現在とは異次元の世界があった。

すっかり姿を変えた現在の子安浜の船だまりなのだが、かつて漁師たちが生活の場、仕事場としていた記憶が残る。過去と現在をつなぐ時間の連続性を感じさせるランドマークのような場所として存続させてほしい。話題性や希少性は申し分ないではないか。

人びとが安らぎを覚える景観には人間の温かみがある。新しければ価値があるということではない。以前暮らしたことのある尾道市(広島県)のJR尾道駅周辺には、雁木がんぎと呼ばれる船着き場が残る古い町並みがあった。ところが、瀬戸内しまなみ海道開通(1999年)に伴う再開発で取り壊され、結果どこにでもありそうな凡庸な風景になってしまった。ついでに思い出したのは米西海岸のモントレーにあるイワシ缶詰工場跡「キャナリー・ロウ」。時代を経て人気の観光名所として生まれ変わっている。

タグ:,