21世紀の新環境政策論~人間と地球のための持続可能な経済とは第44回 科学を信用しない政治と経済学
2020年11月16日グローバルネット2020年11月号
千葉大学教授
倉阪 秀史(くらさか ひでふみ)
グレタさんは経済学を学ぶべきか
今年の1月にアメリカのムニューシン財務長官が、スウェーデンの環境活動家であるグレタ・トゥーンベリさんに対して、「大学で経済を勉強してから出直して来てほしい」という趣旨の言葉を投げ掛けたという報道がありました。グレタさんは、活動に学位は関係ないと反論したようですが、グレタさんは経済学を学ぶべきでしょうか。
財務長官が念頭に置く経済学は、現在の主流派の新古典派経済学でしょう。私は、グレタさんは新古典派経済学を学ぶ必要はないと考えます。グレタさんの主張は、各国政府はIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の科学者の声に耳を傾けるべきという内容です。そして、新古典派経済学の体系の中では、科学者の声が占める位置がほとんど存在していないのです。
新古典派経済学は、市場に参加する主体がそれぞれの利潤や効用を最大化する形で分権的に意思決定して行動しても、市場における価格調整が機能して、社会的に最も良い資源配分が実現するという考え方を根幹に持っています。
市場での価格調整に委ねればすべてうまくいくという考え方は、「科学者の声」を必要としなくなる二つの前提によって成立します。
第一に、市場に参加する主体は、あらかじめ十分な情報を得ているという前提です。効用曲線(消費財量と効用の関係)や生産曲線(生産要素投入量と生産量の関係)の形状は、市場での価格調整が機能する間、固定的に取り扱われます。これは、価格調整の前に、科学的な知見のインプットが完了していることを示します。
第二に、生産も消費も微小な一単位ずつ自由に変化させることができるという前提です。これによって、利潤最大化や効用最大化が成立する資源配分の組み合わせをピンポイントで示すことができることになるのですが、人間の意思で物理的な条件を自由に操って生産・消費を変化させることができることを前提とすることになります。
第一の前提は、科学者による知見の提供が要らないというような考え方を招き、第二の前提は、人間の意思で環境の制約を乗り越えることができるというような考え方を招きます。
実際に、アメリカの経済学者のジュリアン・サイモンは、『究極の資源』という本の中で、人間の知恵が究極の資源であり、環境の限界を人間の知恵で乗り越えることができるので、環境の限界は存在しないと論じました。自然科学は、人間が意のままにすることができない物理的環境の挙動を解き明かす役割を担います。物理的環境が意のままになるのであれば、自然科学は要らなくなります。
このように新古典派経済学によって訓練された人は、「科学者の声」の取り扱いがわからなくなってしまうのです。
科学を信用しない政治
アメリカのトランプ大統領に象徴されるように、科学が政治の世界でないがしろにされつつあるのではないでしょうか。菅政権の日本学術会議会員の6名の任命拒否の背景にも、科学の軽視がみてとれます。
アメリカの世論調査機関であるピュー・リサーチ・センターが2019年10月から2020年3月に実施した20ヵ国を対象とする国際調査では、科学を信用しない層がどこに広がっているのかが把握されています。
まず、顕著に表れているのがアメリカ国内です。アメリカでは、民主党支持者(左派)の62%が「科学者が国民にとって正しいことをする」と大いに信頼していますが、共和党支持者(右派)では20%しか大いに信頼していると回答しませんでした。右派と左派での同様の乖離は、カナダ、オーストラリア、イギリスという、英語圏の諸国でも確認されました。なお、この項目は、日本については集計されていません。
とくに、アメリカでは、科学者への信頼が低下しています。「科学者は事実にのみ基づいて判断を下している」と考える人は、民主党支持者の64%ですが、共和党支持者は31%にとどまります。
トランプ大統領率いるアメリカ共和党の科学を軽視する姿勢が、他の英語圏にも影響し、全体として、英語圏の右派の科学軽視が広がっているのではないでしょうか。
この調査は、日本も対象とされています。日本に関して少し気になる結果が報告されていました。ほとんどの国で、年齢が低い層の方が、年齢が高い層よりも「科学者が国民にとって正しいことを行うと思う」と回答しているところ、日本ではそうではありません。
また、日本を除くすべての調査対象国で、年齢が低い層の方が、年齢が高い層よりも、「経済成長が低下したり雇用が失われたりしても環境保護を優先すべき」と答える割合が高いところ、日本だけがそうではないのです(表)。
日本の若年層に、科学軽視の風潮が広がっている可能性があります。
なぜ科学的知見を必要とするのか
経済学にもさまざまな考え方があります。宇沢弘文先生は、社会的共通資本という考え方を提唱し、自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本といった社会的共通資本は、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・運営されなければならないと考えました。社会的共通資本の管理主体は、専門的知見に基づき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うとしています。ここでは専門的知見が必要とされています。
人間の経済の持続可能性を確保するのは、各種資本基盤です。資本基盤には、人的資本基盤、人工基本基盤、自然資本基盤、社会関係資本基盤(助け合える人と人との関係性)といった種類があります。これらは、サービスを提供してもその実体を失いません。
そして、それぞれの資本基盤がどこまで持続できるのかを把握するためには、科学的知見が必要となります。また、これらの資本基盤は適切にケア/維持管理を行わないと、その機能が徐々に失われていきます。資本基盤のケア/維持管理のためにも専門的知見が必要となります。たとえば、保育、教育、医療、介護、建築物の維持管理、農地・林地・漁場の維持管理といったケア労働には、一定の専門的な知識が必要となります。
そして、資本基盤の持続可能性に関する判断は、市場の機能が発揮される前の段階で、市場外的に行われる必要があります。この段階で、科学的知見が必要なのです。主流派経済学は、市場外的判断の必要性を十分に認識していない点で欠陥があるのです。