フォーラム随想アルペ神父の列福

2020年09月15日グローバルネット2020年9月号

日本エッセイスト・クラブ  常務理事
森脇 逸男(もりわき いつお)

 

新型コロナウイルスの災禍、なかなか収まらない。このため、とっくに解決しているのに、まだペンディングのままといったようなことが、世界にはいろいろあることだろう。そんなことの一つ、コロナ禍がなければ今頃は、カトリック教会で日本関係の「福者」が1人生まれていたはずだ。

福者というのは、カトリック教会で、死後、徳と聖性を認められた方に贈られる称号で、その後さらに聖性が認められれば、「聖人」の称号が贈られ、崇敬される。

日本関係ではこれまで、日本に初めてカトリック教を伝えたフランシスコ・ザビエルをはじめ、26聖人殉教者といった方々が聖人とされ、また、大名の地位を捨てて信仰を貫いたキリシタン大名高山右近は最近「福者」とされた。

 

さて、その「福者」に近く列せられると考えられているのは、もう7、80年もの昔、日本で宣教活動をされ、1945年8月、広島に原爆が投下された時は、率先して被爆者の救護・医療に尽くされた、スペイン出身、1907年生まれのペドロ・アルペ神父だ。

のち1965年に全世界のイエズス会の総長に選ばれたが、81年病魔に冒され、10年の間ベッド生活の後、91年帰天された。

まだマドリード大学の医学生のころ、フランスのルルドで、聖母マリアの導きで病者が治癒した奇跡を目にして、27年イエズス会に入会。フランシスコ・サビエル布教の地の日本に38年来日。ちょうど山口教会主任司祭のモイゼス・ドメンザイン神父が、もともと古寺の建物を利用していた教会建て替えのため、建築費集めにスペインに帰国することになり、その間、山口に赴任された。ところがこの神父、ただ留守番を務めるだけでなく、その間の布教活動が目覚ましかった。実は私は、その頃小学校のち国民学校の3、4年生で、同教会の信者だったが、神父の市内の旧制高校や高等商業、旧制中学の生徒なども対象とした活発な布教活動は、なお記憶に残る。

40年に日独伊三国同盟が締結されたときは、スペインも加えて、「日独伊西大音楽会」を市内の大殿小学校の講堂で華やかに開催、文化に飢えていた山口市民が続々と詰めかけ、満員の盛況だった。

シューベルトの「魔王」で父を呼ぶ子どもの声や、スペイン民謡で「チルリルリ」と鳥の声を歌われる神父の美声は今も耳に残っている。

この活発な布教ぶりには、反発もあった。神父の行動は、ことに治安当局からは強い警戒の念を持って監視された。41年12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると同時に、アルペ神父はスパイ容疑で山口憲兵隊に拘引され、以来、1ヵ月余りにわたって、厳しい取り調べを受けた。

無実とわかって解放された後、広島市の郊外のイエズス会修練院の院長に転任され、45年8月6日、広島に原爆が落とされたときは「修練院の庭に爆弾が落ちたと思ったが、修練院はかすり傷ひとつなかった。目の前に壊滅した広島市が見えた。そこは炎の海、黒い雨だった」と回想される。逃げてきたやけどを負った人たち150人を聖堂に収容して手当て、その人たちは1人も死ななかった。

 

没後、その人柄を知る日本や南米の信徒の間で、列福運動が始まり、以来、東京では毎年2月11日に麹町の聖イグナチオ教会に信徒が集まり、アルペ神父の列福を祈るミサの後、神父の思い出を語り合っていた。その結果、昨年(19年)8月には、ローマの教皇庁で神父の列福のための調査が開始され、今年初めにはローマから東京のイエズス会に、神父の列福調査団が3月に来日するので受け入れ体制をよろしくという知らせが届いていたところだった。

コロナ禍が収まれば、調査団は来日の運びとなり、やがて、アルペ神父の列福が実現するに違いない。このところ宗教心が薄いわが国の人たちにとっても、歓迎したいニュースだ。

タグ: