食卓からみる世界-変わる環境と暮らし第19回 変わりゆくブータンでの「農業回帰」
2020年08月18日グローバルネット2020年8月号
公益財団法人 地球環境戦略研究機関 (IGES)
自然資源・生態系サービス領域 研究員
松尾 茜(まつお あかね)
「幸福の国」として知られるブータン王国は、インドと中国に挟まれた、人口約75万人の小さな仏教国だ。チベット自治区と接する北部のヒマラヤ山脈には、国内最高峰であり未踏峰でもある7,570mのガンカープンスム山がそびえ立つ。一方、インドと国境を接する南部は標高100m程度の亜熱帯性気候で、生物多様性のホットスポットでもある。私がかつて在住していた首都ティンプーの標高は約2,300m。気候は長野県に似ている。1970年代までほぼ鎖国政策を取っていたことでも有名だが、開国後も、経済開発を急いて失敗した近隣諸国を反面教師に、独自の開発路線を模索した。それが、先代の第4代国王が提唱した「国民総幸福量(GNH:Gross National Happiness)」の向上を目指した国づくりだ。GNHは、仏教の「足るを知る」思想に大きく根付いている。そもそも、ブータン仏教では、欲深くなること自体が罪と考えられているため、人びとの限りない欲望を満たすための消費活動を原動力とする経済至上主義とは反りが合わない。ブータンの人びとはもともと、限られた資源の中で小さく暮らす遊牧民だったが、1960年代以降、農業が発展し、主要産業となった。近代化以降は、ヒマラヤの高低差を活用した水力発電と、“High value, low impact”を政策の柱とする持続可能な観光産業により外貨を獲得している。
2011年、現第5代国王夫妻が来日し、ブータンは国内で一躍有名になった。東日本大震災の被災地を訪問し現地の方々を勇気づけ、国会で演説をしたワンチュク国王の姿には、多くの日本国民が心を打たれた。その後、日本で巻き起こったブータンブームを観光の好機にしようと考えたブータン政府は、日本人観光マーケティング担当者を募集。運良く採用されたのが私だった。2012年、ブータンへ飛び、その後2017年までの約6年間、現地に駐在した。後半の3年間は環境NGOに所属し、農村部のエコツーリズム開発に携わった。
●仏教とGNHに根差したブータンの環境政策
ブータン仏教の習慣では、毎朝「すべての生きとし生けるもの」の幸福を祈る。人や動物に対して慈悲の心で接した分だけ徳を積むことができ、積んだ徳が多ければ、死後再び人間として生まれ変わることができる。人びとは切り花を嫌い、縁起の良い日には地面の虫を踏んでしまうのを避けるために外出を控えるほど信仰心が深い人もいる。西洋社会や国連がいわゆる「環境保全」を啓発するずっと前から、ブータン人にはおのずと、自然を大切にする意識が身についていた。現在、環境保全はGNHの4本柱のひとつに位置付けられ、憲法でも国土の森林被覆率を60%以上に維持する旨が定められている。農村部には里山らしい風景が残り、マツタケもよく採れる。
しかし一方で、近年は急速な社会経済発展による負の影響も顕著だ。都市部ではプラスチックのゴミ問題や、無秩序な都市計画による大雨時の浸水被害などが頻発。農村部では、仕事を求める若者の都市部への流出による耕作放棄地の増加など、日本と同様の環境問題が起きている。農業と観光以外にこれといった産業が無いため、都市部に来た若者たちは失業し、治安の悪化を招いている。ブレーンの海外流出による国内人材の空洞化も顕著だ。しかし私が現地で感じた限りでは、英語が堪能なブータン人の目は良い意味でも世界に開かれており、経済的な豊かさは真の豊かさをもたらさないことを、若者でさえも悟っているように見えた。自然豊かで美しい自国を誇りに思っており、近年は環境系の若手起業家なども育ってきている。
●唐辛子とチーズ、だけじゃないブータンの食文化
ブータンの主食はお米で、唐辛子(エマ)とチーズ(ダツィ)の煮込み料理「エマダツィ」をおかずにするのが基本だ。標高が高く沸点が低いため、圧力鍋でご飯を炊くのが一般的。コメが採れない高地では、そば粉をパンケーキにしたり、水と一緒に練って団子状にしたりしてエマダツィとともに食べる。日本人の農業専門家である故・西岡京治氏の農業指導の功績もあり、採れる野菜の種類は日本と似ている。食に対してあまり冒険はしない国民性で、「エマダツィがあれば幸せだ」と皆口を揃えて言う。外出時は、ご飯とエマダツィを「バンチュン」と呼ばれる竹籠に入れ密閉して、日本の着物に似た民族衣装の「ゴ」の懐に入れて持ち歩く。
しかし経済社会発展が著しいここ最近20年ほどの間で、人びとの生活様式は、急速に様変わりしている。今や主流のお弁当箱は、バンチュンから象印の保温ジャーに取って代わられた。農村部と都市部における食生活の格差も拡大している。ブータンにはまだスターバックスもマクドナルドも進出していないが、人びとは明らかに西欧の食文化に憧れと好奇心を抱いており、最近では首都ティンプーを中心に、ピザ屋やカフェ、世界各国の料理を出す店々、そしてマクドナルドの模倣店までもが開店した。インドやタイ、中国から輸入されたスナック菓子の影響で、虫歯や肥満といった健康被害も増加。冒頭に述べたプラスチックゴミ増加の問題にも直面している。
●コロナ禍に見るブータンの農業回帰
しかしそういった状況に警告を鳴らし、時期を得て実行に移すのがブータンの聡明な国王そして国民である。昨今のコロナ禍の取り組みとして、SNSを通じて頻繁に更新され、友人から見聞きするのは、「農業回帰」の取り組みだ。幸いブータンでは市中感染は起きていないが、感染が拡大するインドとの国境は封鎖。外貨の獲得手段であった国際観光による収入もゼロになった。そこで、仕事を失ったツアーガイドやホテル経営者らは、自主的にグループをつくり、有機農業を始めたというのである。政府も、失業したツアーガイドに農業用地を割り当てるなどの支援をしている。育てるのは、唐辛子はもちろん、トマト、キャベツ、ニンジン、インゲンマメなど。今回このような形で農業回帰の流れが起きたことで、パンデミック終息後も、観光のオフシーズンは農業に従事したい、と考えるガイドらが増えているそうである。
私が開発に従事していたエコツーリズムはどうなっているか?と、かつての同僚であるブータン人に尋ねると、国内観光客や学生向けに方針転換し、アグリツーリズムビジネスを展開しているのだという。そこでふと思った。つい最近まで鎖国をしていた国なので、国境閉鎖には、もしかしたらあまり抵抗は無いのかもしれない。外から人やモノが入れないのなら、域内で人やモノを循環させよう、という発想に、早々と切り替わったようだ。これはまさに、現在日本の環境省も推進する、地域循環共生圏の考え方を体現しているのではないだろうか。何も、大げさなシミュレーションモデルを構築して実験した結果、域内経済を回すことにしたとか、そういう話ではない。外から人が来られないなら、有る資源を自分たちで活用して、ついでに楽しもう! という単純で楽観的な発想から来たもののようで、それが何ともまたブータンらしい。私が現地に居る時にエコツーリズムのプログラムとして提案したピクニックやハイキングを、地域の人たちが自分たちで楽しんでいる写真を、友人のSNSで見つけた時には、何ともほほ笑ましい気持ちになった。近年、農家の食事を知らない都市部の若者も増えているので、農家ホームステイでブータンの伝統食を存分に学んでもらいたいものだ。そして、いつかまた海外からの旅行者にも、ブータンの農家で、若いガイドらが育てた有機野菜を存分に使ったブータン料理を味わってもらいたい。自然を大切にする、心温かいブータンの人たちと楽しい会話を弾ませながら。