フォーラム随想地球がオーバーシュートする日
2020年08月18日グローバルネット2020年8月号
自然環境研究センター理事長
元国立環境研究所理事長
大塚 柳太郎(おおつか りゅうたろう)
新型コロナウイルス感染が日本で急速に拡大した2020年3月ころ、政府機関やマスコミがオーバーシュートという言葉を頻繁に用いたのは記憶に新しいであろう。「感染の爆発的増加」という意味で使われたのであろうが、概して不評だったように思われる。
不評だった理由の一つは、カタカナ表記の英語のなじみにくさかもしれないが、それ以上に、多くの人びとはオーバーシュートという言葉が、「標的」あるいは「基準点」や「境界点」を超えることを含意していると感じ、オーバーシュートが具体的に何を意味するかを知りたかったのであろう。
もっとも、政府から発表された新型コロナウイルス感染に関する情報には、オーバーシュートに限らずわかりにくいものが多かった。たとえば、都道府県別の毎日の新規感染者数は公表されたものの、検査された人数などの基本情報はほとんど示されなかった。
同じ英語のオーバーシュートであるが、まったく違う使われ方が以前からなされている。それが、今回の話題である。
エコロジカル・フットプリントをご存じであろうか。これは、地球環境の持続性を評価する手法の一つで、1990年代初頭に、カナダのブリティッシュコロンビア大学の大学院生だったスイス人のマティス・ワケナゲルが、ウィリアム・リースの指導を受けながら考案した、科学的根拠に基づく地球環境の持続性の評価法である。
エコロジカル・フットプリントは、日本では1996年に『環境白書』に取り上げられ、2006年に決定された第三次環境基本計画で評価指標の一つにされているし、世界の多くの国々の政策にも取り入れられている。
評価法の詳細は割愛するが、その骨子は、人間がそれぞれの居住地域(国など)で現在の生活を送るのに必要な生物生産力が、地球の陸地と水域の平均的な生物生産力に対しどの程度かを数量的に表すのである。生物生産力とは自然生態系が持つ、①人間に食料・水・エネルギーなどを提供し、②人間が出す廃棄物を浄化し、③二酸化炭素を光合成により吸収するなど、自然の循環システムを維持する機能を意味している。
エコロジカル・フットプリント分析の結果は、それぞれの国や地域の人びとの生活を世界中の人びとが行うと必要になる地球の数として示されることが多い。もう一つが、世界中の人びとが現在の生活を送る結果、地球の総生物生産量を超える利用量に達する日を「地球がオーバーシュートする日」として示すことなのである。
マティス・ワケナゲルが代表を務める国際環境NGOであるグローバル・フットプリント・ネットワークによると、1970年の「オーバーシュート日」はまさに年末で、地球上のすべての人びとが一年間生活しても生物生産力が維持される範囲に収まっていたのである。その後、「オーバーシュート日」は2010年までの40年間に140日も早まり8月初旬になった。2010年頃から早まるペースは落ちたものの、2019年には8月を越え7月29日になった。なお、この年に必要な地球の数は1.75個であった。
ワケナゲルらは、「オーバーシュート日」がさらに早まることを危惧していた。ところが2020年6月に発表された予測によると、コロナウイルス感染により人びとの生活が変わり、「オーバーシュート日」が逆向きに変化し、3週間以上遅れ8月22日に戻るのである。この年に必要な地球の数も1.6個と推測されている。
この変化の主な原因は、木材伐採量の減少と化石燃料由来の二酸化炭素排出量の減少にあるという。コロナウイルス感染という想定外の出来事が、人びとが努力をすれば、エコロジカル・フットプリントが変わることを確認させたのは間違いない。しかし、当然ながら重要なのは、人びとが叡智に基づいて、このような変化を起こせるかにかかっているのである。