フォーラム随想遥かなり旧制高校
2019年12月16日グローバルネット2019年12月号
日本エッセイスト・クラブ常務理事
森脇 逸男(もりわき いつお)
先日、山口市に行って来た。私が小学校2年生から、大学に入るまで暮らしていたところだ。その最後の1年間在学したのが、旧制山口高等学校だった。その今は無い「旧制山高」の創立100周年記念式典に出席するための山口行きだった。「旧制高校って何? 関係ない」と言われておしまいかもしれないが、私にとっては懐かしく思い出深い1年間だった。今もその1年間は「わが生涯の最良の年」だったと思っている。
まず、旧制高校とは何だったかを説明しよう。明治19(1886)年公布の中学校令による高等中学校に始まり、同27年(1894)年公布の高等学校令により高等学校と改称され、終戦直後の昭和25(1950)年3月に廃止されるまで、約70年間にわたり存在した学校だ。一部に7年制もあったが、大半は3年制で、国公私立を合わせ朝鮮や台湾、関東州を含め、全国に41校あった。
卒業後はほぼ全員が旧制大学に進学、やがて近代日本を担う人材となった。生徒はその多くが学校に併設された寮で生活をともにし、切磋琢磨、白線帽にマント、朴歯の高下駄姿で「嗚呼玉杯に花うけて」や「紅もゆる」などの寮歌を高吟して街を闊歩する姿は、旧制中等学校生の憧れの的だった。
ただ、戦後、占領軍総司令部が推進した教育改革の一環として、六三三四制が導入され、旧制高校は廃止された。私が旧制山口高等学校に入学したのは、昭和23(1948)年だったが、すでに廃止の方針は決まっていたようで、当時の2年生は一応3年まで在学して旧制高校を卒業できたが、わが同期生は、翌24(1949)年3月、1年修了で、学年が無くなり、この年発足した新制大学を受験して、合格すれば新制大学生になり、白線帽を角帽に変えることになった。翌年、3年生が卒業すると、旧制高等学校は姿を消した。ただ、教授陣や校舎の多くは、新たに発足した新制大学に移管された。
ということで、今年、令和元年は新制大学が発足して70年だった。旧制山高が開校したのは、大正8(1919)年で、ちょうど100年になる。そこで、言って見れば旧制山高の後身の山口大学人文学部と理学部は、この10月に、創立70周年を記念するとともに、「歴史をつなぎ、想いを伝える」をスローガンに、旧制山高の100周年を記念する式典も併せて開催してくれた。その昔の旧制山高生としては、本当にうれしいことだった。
式典開催に際して連絡がつく限りの旧制山高卒業・修了生に出席を呼び掛けたが、いかんせん、1年修了の最若年者もすでに80代の後半だ。所用や体調不良で出席は無理という向きが大半で、結局旧制の卒業・修了生の参加は10人足らずに終わったが、式典では、いずれも欠席だったものの、元同窓会長や友誼校の旧制松山高等学校同窓会長の祝辞のほか、旧制山高1年修了生の1人の映画監督山田洋次君の挨拶が代読された。
今年50作目の寅さん映画「男はつらいよ お帰り寅さん」を制作した山田君の挨拶は「あのエッセン(食)とメッチェン(若い娘)に明け暮れた悲惨とも言うべき貧しい青春の日々が、今日の先行き不透明で不安な時代にあってどれほど懐かしいか。現代の若者たちの飼い馴らされたような、既成のモラルや権威に対してあまりに従順な姿を見ながら、何かいら立たしいような焦燥感に駆られてしまうのはぼくだけでしょうか。かすれた塩辛声を精一杯張り上げて、会場の皆さんとともに寮歌を歌いたい」と、いかにも彼らしい内容で、満場の拍手を受けた。
この後、会場を移しての祝賀会で旧制山高卒業・修了生により斉唱された山高校歌・寮歌を聞きながら、例えば、旧制山高と同じ大正8年に開校した旧制松本高校の後身の信州大学では、入学式に旧制松高の寮歌「春寂寥」を歌っているという。山口大学でも「鴻南に寄する歌」を歌うようになってほしいと思った。