拡大鏡~「持続可能」を求めて第8回 有害化学物質によるリスクが激減する日〜環境省VS経産省バトルから考える

2019年12月16日グローバルネット2019年12月号

ジャーナリスト
河野 博子(こうの ひろこ)

ノニルフェノールは有名な化学物質だ。生体内に入った時、ホルモン作用をかく乱する「環境ホルモン」の一つ。2001年8月3日、新聞、テレビが「工業用洗剤の原料 環境ホルモンと断定 環境省」(読売新聞夕刊1面)などと一斉に報じた。メダカのオスの6割をメス化させる内分泌かく乱作用があることが調査でわかった、という内容。この化学物質をめぐり、現在、政府内で異例のバトルが続いている。

ノニルフェノール

「わが社の食器には材料や添加剤にノニルフェノールは一切使用していません」。容器メーカーがこんな断り書きを出し、日本界面活性剤工業会が対応策の強化を発表―。2001年夏、さまざまな業界に衝撃を広げたノニルフェノールは、その後、国内生産量が当時の3割に減り、2009年以降は年約6,000tで推移。主に油脂汚れや金属を洗浄する時に使う工業用界面活性剤、農薬成分を葉にとどめるために農薬に配合される展着剤、羊毛の洗浄剤などに使われている。

一方、欧州連合(EU)では、ノニルフェノールの親物質は「認可対象物質」(使用・販売には認可が必要な物質)となり、厳しく規制されている。

化学物質は恐ろしく数が多い。日本政府の化学物質管理は化学物質審査法(化審法)などにより行われる。ノニルフェノールは、親物質が「優先評価化学物質」(計223物質)の一つで、国がリスク評価を行う。

ところが、そのリスク評価が暗礁に乗り上げている。環境、経済産業、厚生労働3省は2018年3月、2019年1、3、7、9月と計5回の合同審議を重ねたが、議論は空転。とくに環境、経産両省間の対立が続き、調整がつかないため、本格的議論に入れないでいる。

2019年9月20日に行われた3省合同審議会でも、議論は収束しなかった。

3省合同審議会空転の理由

国によるリスク評価は、こんな手順で行われる。政府は環境省が中心になって作成した評価案を審議会に提示。審議会の専門家が、試験データが信頼できるか、試験が国際的に確立された方法に沿って実施されたか、ルールから外れた点があった場合、どの程度試験結果に影響したか、最終的にそのデータを信頼できるか、などを検討する。信頼できるとされたデータから「影響のない濃度」(予測無影響濃度、PNEC)を導き出し、これと実際の環境中の濃度を比べ、PNECを上回る「懸念地点」の数を推計する。地点数が多く、相当広範囲に及んだ場合、「第二種特定化学物質」に指定される。

昨年3月に環境省が示した評価案のPNEC値をモニタリング調査の結果と比べると、全国約8,600地点中約800地点がリスク懸念地点ということになる。

「環境リスクがある状態なのに、経済産業省が審議を止めて時間稼ぎをしていると見られがちですが、それは違います」。経産省製造産業局化学物質安全室の飛騨俊秀室長は、そう強調する。「われわれは、企業を守るためには環境がどうなってもいいなんて思っていません。これを本当に第二種特定化学物質にしていいのか、冷静な議論が必要です」。

第二種特定化学物質に指定されると、事業者は事前に製造輸入量などを届け出て、年度終了後に結果を報告する。経産省はこれを受けて検討し、製造輸入量や出荷量に制限をかけることもある。飛騨室長は「研究者や環境省の方は、PNECについて、念のため厳しめに安全サイドに立って決めた、とか言うが、ムダにマージンが大きいところでPNEC値を決めると、事業者はそれに合わせてさまざまな投資をしなければならない。軽々に決めていいわけはないんです」と言う。

国内産業を保護・育成する経産省としては当然の立脚点ともいえる。では、具体的に何が問題なのか。細かな話になってしまうが、バトルを振り返ってみる。

経産省が指摘した点は主に二つ。まず、環境省のリスク評価案の基礎となった国立環境研究所の試験データが、水温や室温の計測についてずさんだった点。「解毒、代謝・排せつなど魚の生理機能は水温の影響を大きく受ける。試験はどのような水温で行われたのか」との専門家の疑問を受け、経産省が環境省に問い合わせを重ねた。その結果、毎日測定しなければならない水温測定が週一回程度だったなど、水温や室温の測定に問題があったことなどが、今年初めにわかった。

批判を受け、国立環境研究所の鈴木規之・環境リスク・健康研究センター長は「水温・室温データに関しては、お恥ずかしい限り。ただ、この試験に関わっていない専門家から、『試験は成立し、データは使える』との判断も聞いている。試験は長い時間をかけ、多数の人が関わって行うので、完璧な試験データが得られないことがある。専門家が議論して判断していくことが重要だ」と話す。

また、ノニルフェノールは、水生生物保全のための環境基準項目の一つとして、2012年に追加された。その際に日本の国内種ではないからという理由で使われなかった生物のデータが、今回の評価案の中で使われていることも、やり玉に挙がった。

これに対し、環境省側は「生活環境保全のための環境基準は、場を管理するという視点で、環境基本法に基づいて設定される。水域類型別に値を設定し、そこに実際に生息する生物のデータを使うことにしたため、国内に生息しない生物のデータは使わなかった。一方、化学物質審査法に基づく評価で使われる試験生物は、多くの化学物質の評価を比較できる形で、安定して出せることを主眼とし、在来種にこだわらない形で国際的に行われている」としている。

生態系保全の考え方

このバトルをどう見るか。私自身、地球の生態系は危機的状況にあると思っているので、どうしても経産省側の主張は「言い掛かり」に見えてしまう。

しかし、環境省サイドが経産省側からの問い合わせや指摘に迅速に対応し、説得力があり丁寧な説明ができていれば、こうした審議遅れは生じなかったのではないかと思う。

経産省の主張を聞いていると、もっともな点もある。ノニルフェノールは農薬に添加されているのに、農薬は農薬取締法で規制されているとして化審法による規制から外れているため、結局、対策が工業用途品の製造事業者への規制に偏ってしまう、と言うのだ。

経産省サイドには、「生態系保全のいまのルールは、日本中どこでも、ミジンコ一匹殺さないというルール。でも、本当にそこまで厳しいことをしなければいけないのか」という思いもある。

化審法の下でのリスク評価については、ガイドラインが定められており、3省で合意されている。その基本的な考え方は「環境中の生物への影響をみるため、試験がしやすいミジンコやメダカなどが国際的に選ばれている。ミジンコやメダカそのものを守りたいからではなく、生態系への影響を評価する際のいわば指標生物として使っている」(山﨑邦彦・環境省環境リスク情報分析官)。しかし、わかりにくい。環境省は、生態系保全やリスク評価の考え方をわかりやすい言葉で説明していく努力を重ねてほしい。

デッドロックに乗り上げている3省合同審議会。今後、審議会の委員を務める専門家が集まって忌憚ない議論を重ねる方針という。世間の「環境ホルモン」への関心は低くなっているようにみえる。それは、問題がなくなったからではない。この間、体制が整ってきた政府の化学物質管理に、人びとが懸念の払拭を委ねているからだ。3省および関係する専門家が、このリスク評価を引き延ばしたり、訳がわからない結論を出したりすれば、人びとの信頼を裏切ることになる。

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