日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第25回 ―鹿児島・枕崎 遠洋カツオ一本釣りとかつお節にある歴史の味
2019年04月15日グローバルネット2019年4月号
ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)
鹿児島市から薩摩半島の南端にあるかつお漁で有名な鹿児島県枕崎市を目指した。水森かおりの『ひとり薩摩路』の歌詞の逆に、鹿児島から半島を右周りに枕崎、串木野、出水の順で訪ねた取材。枕崎の手前には枕崎に次ぐかつお節生産量で「指宿鰹節」ブランドで知られる指宿市山川地区がある。天日干ししているかつお節を見て、道の駅でカツオの腹部を塩漬けした「腹皮」を買っていざ枕崎市へ。
最初に立ち寄った枕崎お魚センターの2階にある展望レストラン「ぶえん」で食べたかつお丼は、赤い刺し身が9枚のって880円(税込み)。おいしくてお得感のある値段だった。
1階の観光案内所では、日本列島の最北と最南に始発終着駅がある縁で北海道稚内市と友好都市だと教えてもらった。それぞれの特産品である昆布とカツオをかけた「コンカツ(昆鰹)プロジェクト」でさまざまな縁結びを支援するという。こいのぼりの代わりにかつおのぼりを揚げている、まさにカツオの町なのだ。
●冷凍技術で高品質保つ
枕崎はとくに重要な漁港である特定第3種漁港(全国で13カ所)の一つ。混獲がないカツオ一本釣りが環境にやさしい日本古来の漁法であることや、急増する外国のまき網漁船によるカツオ資源への影響も気にしながら、枕崎市漁業協同組合で総務部長の揚野功さん、同次長の大川畑弘之さんに話を聞いた。
枕崎のカツオ漁は明治時代後半まで帆船で行われ、南西諸島付近(沖縄近海)を漁場にしていた。その後、動力船が導入され、漁場が飛躍的に拡大した。枕崎の医者で漁業経営者でもあった原耕(はら こう)が大正末期から昭和初期にかけて、台湾やフィリピンなどの南方海域の漁場を開拓し、枕崎はカツオ遠洋漁業基地として飛躍的に発展した。
現在漁協には、漁協所有の第3協洋丸(499トン、30人乗り組み)など3隻の遠洋カツオ一本釣り漁船が所属。漁場は北緯10度くらいのマーシャル諸島海域が多い。片道10日ほどかかり、近海魚よりかなり遠方だ。
揚野さんらから聞く遠洋カツオ一本釣りの現場は豪快だ。生き餌のカタクチイワシをまくとともに、海面に水を打ってカツオを呼び寄せて、疑餌針で釣り上げる。
釣り上げたカツオはシューター(滑り台)で船内に入り、-20℃のブライン液(濃度22%の塩水)で凍結するB-1という技術で、この後-50℃の超低温保冷庫で鮮度を保つ。さらに高度なS-1では一匹ずつ生き締め装置を使って血抜きをする。こうして新鮮でモチモチ感のあるカツオを提供することができる。
生きたまま凍ってしまうカツオは口を開けている。生臭さはなく、ほとんどが生食用となる。漁協の総合加工場では、一本釣りしたカツオを-50℃でたたきなどに加工し、真空包装して、生協や量販店、問屋などに出している。5月から6月が旬だという。
総合加工場は遠洋一本釣りしたカツオの付加価値を最大限に生かすための施設。厳しさが増すカツオ漁の環境の中で、カツオの町の繁栄を支え、伝統のカツオ漁を後世へ伝えようという漁協の自負を感じさせる。
加工風景が見学できるというので、漁協や加工組合、市などが出資して作った株式会社枕崎市かつお公社に向かった。カツオ製品の販売コーナーの奥にある低温処理室のガラス越しに凍結状態のカツオを割裁装置で一匹ずつ裁断する作業を見た。枕崎漁協は「枕崎ぶえん鰹」のブランド商品などとして販売している。
●和食普及願い海外進出
枕崎漁港の水揚げは平均して年間10万tほど。青物と呼ばれるアジ、サバなどを含み、カツオの水揚げは6~8万t。2018年度(2017年12月~翌年11月)の遠洋一本釣りは2,513tで全体の3%ほど。これに対し加工用となる海外まき網が5万2,685t、輸入9,768tとなっている。海外まき網漁船の水揚げが集中する枕崎、山川、焼津(静岡県)の中で枕崎は1994年から24年間連続で「かつお節生産日本一」を誇っている。
かつお節は古くからあったが、宝永年間(1704~1710)に紀州の森弥兵衛が枕崎に本格的なかつお節製造を伝えたという。300年以上の歴史の中でかつお節の製造方法の改良や製造専業化が進み、枕崎は有名産地として知れ渡った。現在主なかつお節には、最高級の本枯れ節、軽度の燻乾を施した生利節、花かつおなどの削り節の原料になる荒節などがある。
枕崎はカツオを煮る際に欠かせない良質の水に恵まれ、熱加工する際の焙乾、燻乾に使うカシやクヌギなどの木材燃料を近隣から調達しやすかったことなど、かつお節製造の条件がそろっていた。加えて水深6mの外港を新設して1985年から海外まき網船を誘致したことなど積極的な取り組みが奏功した。
原料であるカツオの値段が不安定なことや食生活の変化などでかつお節の生産量や消費量は減少傾向にあったのだが2013年、この流れに大きな転機が訪れた。和食が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録され、だしの基本であるかつお節が脚光を浴びるようになったのだ。海外ではだしが利いていない和食もどきが広まっていたため、「本物の和食を普及させるには海外でもかつお節を生産しなければ」と、枕崎水産加工業協同組合が中心になって設立した事業者が2016年、フランスにかつお節工場を新設した。当時は欧州連合(EU)の規制によって日本からかつお節が輸出できなかったため、インド洋で漁獲した冷凍カツオを原料にフランスで生産することにした。枕崎水産加工業協同組合は商標登録やブランド化などへの取り組みが評価され、昨年の知財功労賞の特許庁長官表彰を受賞した。枕崎以外にも日本企業などが、かつお節を海外生産し始めており話題は多い。
かつお節ブームで新商品開発や観光との連携などが続く枕崎は、有卦に入ったような雰囲気が漂う。漁協でも揚野さんは「今年は地元と全国の水産高校から7人の新人がカツオ船の乗組員になりました」と喜んでいた。
●行商の像に苦難の記憶
インタビューを終えると、漁港の一角で原耕氏の銅像のそばに「かつお節行商の像」を見つけた。行商の像は、1895(明治28)年に台風でカツオ船23隻が沈没し411人が犠牲になり、残された妻や家族がかつお節を売って生計を立てたことを伝えている。
漁港を後にすると、近くの火ノ神公園にある戦艦大和慰霊碑を見て、国道226号「南さつま海道」を西へ海岸線を進んだ。10㎞ほど走ると坊津。中国明代の文書『武備志』には安濃津(三重県)、博多津(福岡県)とともに日本三津(港の意味)であったことが記されている。江戸幕府が明船の入港を長崎に限った後も密貿易で栄えていたが、1723(享保8)年、幕府の取り締まりを受け(「唐物崩れ」といわれる)、坊津港から多数の大型船が枕崎港に逃げ込んだ。大型船はその後カツオ船として利用され、南方漁場の拡大に寄与したといわれる。
歴史の中にカツオがあるのか、カツオが歴史を作るのか。どちらも正しいように思えてきた。