食卓からみる世界-変わる環境と暮らし第8回 ベトナム・メコンデルタのエコシステムが織り成す豊かな食文化
2018年10月16日グローバルネット2018年10月号
特定非営利活動法人 Seed to Table~ひと・しぜん・くらしつながる~ 代表
伊能 まゆ(いのうまゆ)
筆者は1997年よりベトナム語や専門分野を学びながら、国際NGOの活動に参加し、ベトナム各地の農村部を訪問する機会を得た。その過程で地元の種を守ることの大切さや、農村および農家の生計の改善のためには環境に配慮した農法を実践し、農産物を市場に販売していくための支援が必要であることを学んだ。2009年にSeed to Tableという団体を設立し、ベトナムの北部山岳地域および南部メコンデルタにて在来種の保存・活用、子供たちへの環境教育、有機農業の実践、有機農産物の加工と販売などの活動に取り組んでいる。
ベトナムは豊かな食文化を持つことで有名な国の一つである。とくにベトナム南部に位置するメコンデルタは長い年月をかけてメコン川が運んできた土壌によって生み出された肥沃な大地を持ち、気候は雨季と乾季にはっきりと分かれており、年間を通じて安定した気温を保ち、これまで台風などの天災にもほとんど見舞われずに済んだため(今日では、気候変動の影響により、台風の被害に遭うようになった)、安定して農産物を生産することができた。このような恵まれた条件を存分に生かし、メコンデルタはベトナムのコメ生産量の約半分を占め、輸出産業をけん引し、世界で有数のコメ輸出国へと成長させた。現在はコメのみならず、淡水魚やエビの養殖、果樹栽培などが広がり、新たな輸出品の産地としてベトナムの農業セクターの中で重要な位置を占めている。
ベンチェ省 水源の汚染などにより魚介類が減少
メコンデルタの中でも、とりわけ豊かな食文化を持つのはメコン川の最下流に位置するベンチェ省である。経済の中心地であるホーチミン市より約80km離れたところに位置し、メコン川の支流と海岸に囲まれている。2009年に隣接するテイエンザン省より橋が渡されるまでフェリーでしか行けない「陸の孤島」であった。また、ベトナム戦争中にはアメリカと当時の南ベトナム政府に対する一斉蜂起が起こった土地であり、さらにメコンデルタで最も大量に枯葉剤が散布され、現在に至っても農村部にその爪痕が残っている。
ベンチェ省の人々は伝統的に稲作とココナツ栽培、そして、世帯ごとに鶏やアヒル、牛や豚などを小規模に飼育してきた。魚やカニは主に自宅の近くにある水路や海岸で捕獲していた。現在50代の人々の記憶では、彼らが10歳頃、村の中にある水路にはさまざまな種類の魚が、溢れんばかりに泳いでいて、捕まえ切れないほどであったという。しかし、近年、農薬や化成肥料の過剰使用や集約的なエビ養殖の拡大による水の汚染などによって、水路や海岸から得られる魚介類の量が激減している。このことは、セーフティーネットとして機能している水路などから食料を得ていた貧困世帯に深刻な影響を及ぼしている。
豊かな生態系とココナツを生かした食文化
さて、ベンチェ省はメコン川の最下流に位置しているため、淡水・汽水・海水のエコシステムを持つ。そして、それぞれのエコシステムを支える豊かな生態系がある。ベンチェ省に住む人々はこの豊かな生態系とココナツを存分に生かし、メコンデルタにおいてもとりわけ多様な食文化を築いてきた。村でのもてなし料理では、食材は村人が水路や海岸から採取してきたものや、自宅で飼育しているアヒルや裏庭のパパイヤなどで、市場で購入しているものはニンジンなど村で生産できない一部の野菜のみである。この村では海水を引いてきて塩田で塩を作っている他、ゴカイを用いた魚醤も作られている。ゴカイの魚醤はベトナムの魚醤の中でも最も美味とされており、原料はゴカイと塩と水のみである。
ベンチェ省のあらゆる料理には必ずと言ってよいほどココナツが使われている。ココナツジュース、ココナツミルク、ココナツジュースを煮詰めた調味料などである。ベンチェ省のココナツは他地域のものよりも品質が良いとされ、料理にまろやかさや深みを与える。また、ココナツの木の幹に入り込んでいる昆虫の幼虫、ドゥオンズアも揚げて食べる。この他、タケノコに食感がよく似ているクーフーズアと呼ばれるココナツの木の幹の芯の部分をエビや魚醤、ライム、トウガラシなどと和えて食べる。
ベンチェ省内の各地域では、それぞれのエコシステムから得られる食材をうまく組み合わせて食事が作られている。例えば、汽水地域より得られるナマズ科の魚、カーボンロウ(学名:Pangasius krempfi)を同じく汽水で採れるマングローブの一種、カイバン(学名:Sonneratia caseolaris (L.)Engl.)の酸味のある実(写真)でスープを作る。程よく油のあるカーボンロウと爽やかなカイバンの実の酸味がマッチして、大変美味である。カイバンの花も豚肉や海産物と魚醤、ライム、トウガラシなどと和えて食べる。
また、淡水地域ではさまざまな淡水魚を主に鍋にして食べる。その際、同じく淡水地域で採れるさまざまな水草などを一緒に鍋に入れて食べる。魚や水草の種類に関しては季節性があり、多様である。
気候変動により脅かされつつある食文化
しかし、このような豊かなベンチェ省の食文化を支えている生態系が、環境汚染とは別の要因で脅かされつつある。それは気候変動による塩害や降雨パターンの変化などである。世界銀行から2010年に出された報告書“The Social Dimensions of Adaptation to Climate Change in Vietnam”によるとベトナムは世界で気候変動の影響を最も受ける国の一つとされている。また、ベトナム農業・農村開発省や資源・環境省の報告によれば、ベトナム国内でもベンチェ省は大きな影響を受ける地域とされている。2016年には過去100年の間で最も深刻な干ばつと塩害に見舞われた。原因は2015年から続いていたエルニーニョ現象による少雨やメコン川の水量の減少、地球温暖化による海水面上昇など複数の要因によって生じたと考えられている。この干ばつと塩害によって、ベンチェ省では35万人以上の人が深刻な生活用水不足に陥った他、約75%の稲作面積で収穫ができないなど深刻な影響が出た。とりわけ、農作物への被害は甚大で、これまで海水が浸入しなかった淡水地域の果樹栽培農家で海水が混ざった水を果樹へかけてしまい、果樹が枯れたり、ココナツの実が小さくなるなどの被害が出ており、少なくとも数年間は生産量の減少などの影響が続くと予想されている。また、乾季に雨が降るなど降雨パターンが変化しており、果樹栽培や製塩業へ被害が及んでいる。塩害や降雨パターンの変化は長期的に各エコシステムにも影響を及ぼすと考えられる。
今後もベンチェ省の豊かな食文化を次世代につないでいくためには、農家や地域レベルで環境保全型の農業に取り組むなど、できることをすぐに行う必要がある。環境汚染や気候変動が生態系や人々の暮らしに及ぼす影響はすでに明確に表れており、時間との闘いになるからである。Seed to Tableは引き続き、小規模農家へ有機農業を普及するとともに参加型保証制度(PGS)を実践し、ホーチミン市などへ有機農産物を販売していく他、有機ココナツを用いた加工品づくりに取り組む。また、高校生と学校菜園に取り組み、周辺地域の農家と交流しながら、生態系を守ることの大切さについてともに考えるなど、地域の人々のつながりを強化し、環境保全型の地域づくりへつなげていけるよう支援を行っていく。