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 生涯を貫いたパブリックサーバント精神
 地球・人間環境フォーラム・岡崎 洋 会長の逝去に寄せて
財団に込められた思い

2018年08月20日グローバルネット2018年8月号

ジャーナリスト(岡﨑事務次官時代に環境庁記者クラブ所属の読売新聞記者)
河野 博子(こうのひろこ)

地球・人間環境フォーラムの創設者である岡﨑 洋 会長は、去る2018年3月31日に逝去いたしました。大蔵省、環境庁、神奈川県知事の時代にゆかりのあった方々に、人間・岡﨑洋の思い出をつづっていただきました。

 

イベントで話をする岡﨑会長

「環境問題に関する財団を手造り形式で(役所のせわにならずに)つくるぞ、つくるぞと念仏の如く唱えていたら、おもちゃのように小さく貧弱な(小生の給料がとても払えそうにない)財団ができてしまいそうです。(4月頃)。丁度、4月はじめに、現ポストの任期が満了となりますので、これを機会に、再任はかんべんしてもらって、金融村から足を洗おう、と思っています」

1990年2月1日の消印がある。当時、米国留学中の私への岡﨑さんの手紙には、そう書かれていた。

「役所のせわにならずに」「金融村から足を洗おう」という文言が突出している。普通は、なかなかできることではない。

環境事務次官だった頃の岡﨑さんには、地に足を着けてスッと立っている長身の人、というイメージがつきまとう。日本人が誰しも受ける「同調圧力」から自由な人、と言い換えてもいいかもしれない。

環境庁は1987年、岡﨑事務次官のもと、公害健康被害補償法改正による全国の大気汚染地域指定の解除に踏み切った。公害患者団体が「暴挙」に怒って押し寄せる騒然とした雰囲気に役所は包まれた。ところが、事務次官室をのぞくと、机の前に端然と座って文庫本を読んでいるではないか。渦中にあっても自身と状況を突き放し、考える余裕というか「涼しさ」を感じたのを覚えている。

一方で、一定の枠内であってもこう生きたい、社会をこう変えていきたい、という強烈な意志を持っていた人だった。

岡﨑さんは大蔵省(現・財務省)で比較的長く金融畑を歩き、日本銀行の政策委員会の大蔵省代表委員も務めた。環境事務次官を勇退後は社団法人・信託協会の副会長となった。副会長室を訪ねた時、「政財界からの要請を受け、その意を汲んで動くようでないと、大蔵事務次官は務まらない。どうしてもそれは嫌だったので、別の道を選んだ」と役人人生を振り返って話していたことが忘れられない。

1991年3月、大蔵省国際金融局からの委託でフォーラムが作成した報告書「開発融資における環境問題」がある。当時、途上国での熱帯林伐採や先進国の開発プロジェクトによる環境破壊が問題化していた。環境配慮を具体化する措置などが盛り込まれている。岡﨑さんからの手紙には、「河野さんからすれば極めて噴飯ものでなまぬるいものでしょうが」「長があ~い目でみて、ほんの少しでも改善の方向に動いていくきっかけになれば」と記されていた。

にっぽんの「官」中心の社会は、明治以降150年、いやその前の江戸時代300年の歴史を入れるとほぼ500年近く続き、いまなお微動だにしない。「官」出身の岡﨑さんが「役所から自由な環境NGO」を志向したのはなぜだったのか。

「民」が世の中を良くしていく。様々な立場の人々が円卓を囲み、村々の既得権益を超えた広い視野で語り合い、道を拓いていく場をつくりたかった――。

いま聞けば、そんな答えが返ってくるような気がする。

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