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 地球・人間環境フォーラム・岡崎 洋 会長の逝去に寄せて
岡﨑 洋さんを偲んで

2018年08月20日グローバルネット2018年8月号

認定 NPO法人環境文明21 共同代表(岡﨑事務次官時代に環境庁保健企画課長)
加藤 三郎(かとう さぶろう)

地球・人間環境フォーラムの創設者である岡﨑 洋 会長は、去る2018年3月31日に逝去いたしました。大蔵省、環境庁、神奈川県知事の時代にゆかりのあった方々に、人間・岡﨑洋の思い出をつづっていただきました。

 

よく知られているように、岡﨑洋さんは大蔵省から環境庁の官房長に1984年就任し、企画調整局長を経て、事務次官を務めた後、87年に退官した。環境行政とは3年ほどの短期間ではあったが、環境、とくに地球環境問題の重大性に気がつき、90年には財団法人 地球・人間環境フォーラムを自ら立ち上げ、一から基盤固めをしておられた。しかし5年ほどすると、乞われて神奈川県知事選挙に出馬し、知事を2期務めたあと、再び同フォーラムに理事長として戻られている。その華麗な経歴の中で、私にとって岡﨑さんとの接点は比較的限られているが、忘れられぬ思い出はいくつもある。

岡﨑さんが環境庁で取り組んだ仕事の中で最も心血を注いだのは、大気汚染に係る公害健康被害補償法(公健法)の大改正だろう。何故なら、大気は清浄を取り戻しつつあるのに、当時の制度のままでは公害患者は増える一方。補償費用は増大し、費用面からも限界に近づき、また科学的公正さを基盤とする環境行政への信頼も損なわれる危惧は高まっていたからだ。

岡﨑さんがこの大仕事に取り組まれていた折、私は厚生省で廃棄物や浄化槽の担当課長として奮闘していたが、突然環境庁に呼び戻され、まさにその法改正の現場である保健企画課長を命ぜられた。

この異動は、多くの人には意外なものと映ったと思われる。というのは、このポストは、歴代大蔵省出身者が占めており、現に直前の課長たちは苦労に苦労を重ねて中央公害対策審議会(とくに専門委)の了承を得て、ようやく法案化し、国会に上程していた。そのポストをプロパー組の私にあてた理由は、「法改正後の新規施策実行に対する信頼を確保するには、出向組ではなく、環境行政に骨を埋める覚悟の課長を当てねば」との思いで、岡﨑さんは大蔵省の官房長を説得したとのことだ。

この改正案に対しては、社会党や共産党が強く反対していただけでなく、与党の自由民主党の中でも反対があったが、この法案を国会通過させることと、その後の被害予防事業を立ち上げる仕事を、岡﨑次官、加藤陸美局長、目黒克己部長の下でさせていただいた。とはいえ私は、法案を通すために議員の間を走り回る経験はそれまではなかった。しかし幸い、野党の筆頭理事で社会党の大物議員だった岩垂寿喜男氏とは、川崎市の公害対策問題などを通じて親しくさせていただいており、心を開いて話し合える関係を築いていた。岡﨑次官はそこに目を付け、何かにつけて私に岩垂議員の御用聞きに行かせ、その情報を国会対策に役立てていた。

この法案の国会、とくに参議院環境委員会での最終の審議には患者グループが傍聴席に多数つめかけ、採択が近づくと一斉にブーイングが始まり、怒号の中で採択された。岡﨑次官は環境庁の幹部を集めた席で、悲願の改正法の成立を思わず涙ぐんで報告されたと聞いた時には、あのクールな岡﨑さんも”人の子“なのだと改めて実感した次第だ。

このような仕事を通じて描いた私の岡﨑洋像を一口で表現すると、「スマートで爽やかな湘南ボーイ風だが、自分が果たすべき使命を一刻も忘れなかった偉大な仕事師」というものである。官僚の中には、出世することだけが目的で、仕事はその手段としか考えていないのではないかと思われる人も散見されるが、岡﨑さんはその真逆で、自身に与えられた使命を全力を尽くして全うし、地位はその結果としてついてくるものと達観していたのではと私には思われる。

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