ホットレポート多面体の歌人・牧水の魅力を味わう 伊藤一彦歌集「遠音よし遠見よし」を読みつつ

2018年04月16日グローバルネット2018年4月号

エッセイスト
乳井 昌史さん(にゅういまさし)

〈クリムトの金と銀とにまさりつつ今年初めて日向の霞〉

(現代短歌社、2,700 円+税)

霞をまとう日向の春の駘蕩は、世紀末ウィーンの代表的画家、日本にもファンの多いクリムトの色彩の絢爛に負けてはいない、というのだ。日向、つまり宮崎から詠い続ける円熟の歌人、伊藤一彦氏の第十四歌集『遠音よし遠見よし』に見つけた一首。ここを初めて訪れた時に眺めた山河の茫洋として大きな景観、空や海の気が遠くなるほどの明るさを思い出し、さもありなん、とうなずく。古事記に「朝日ノ直刺ス国」と謳われたという、きらめく土地柄の霞である。

〈河の鹿すでに啼きゐる四月には始まりてをり日向の夏は〉に触れると、この時期、まだ残雪の青森に育った僕なんかは羨ましさを覚えるが、次のこんな歌に出会うと、明るい風土が内包するものを考えさせられもする。〈北国の雪気も雪解も知らずゐる人間に欠くるものを教へよ〉。まばゆいばかりの宮崎県で、なぜか自殺率が高いことに心を痛め、〈天地の明るさ苦から救ふより辛さ与ふることなからずや〉と問いかけてくる。大学でカウンセリングの講義や演習を重ね、スクールカウンセラーとして小・中学生の声に耳を澄ました歌人の痛切な実感から生まれた詠誦である。

百一歳の天寿を全うした母親に注ぐまなざしの柔らかさもまた比類がない。〈「父さんはほんとに死んだつよね」と幾度も母聞く「ほんとよ」と答ふ〉。哀切な事実をめぐる詠いぶりは、日向の風土と日向弁、歌作やカウンセリングに培われた呼吸なのか。いろんな要素が短歌形式という器に溶け合って生じたような受け答え、その伸びやかさは見事である。

直接間接に遭遇した長野地震や東日本大震災、熊本地震の被災地を思い遣る心、平和志向と憲法観、飼い主に飾り立てられた犬や猫の不機嫌を察知する感覚…。多岐にわたる五一八首を収めた最新歌集は、日向のゆたかな自然が生んだ歌人、若山牧水を題材にした歌が圧倒的に多い。牧水を敬愛する研究家でもあり、生地の渓谷沿いの村(現・日向市)にある「若山牧水記念文学館」の館長を務める伊藤さんは、日向の先達に寄り添う短歌や批評、エッセイなどを発表してきたが、この歌集には殊に思いがこもっているようだ。さながら、短歌表現による牧水評論の感がある。

エコロジスト・牧水の視線

そう言えば、今年は牧水没後九十年に当るという。〈幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく〉〈白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ〉…など心に染み入る歌の数々を詠み、「旅と酒の歌人」と呼ばれてきた。それはその通り、とは言うものの、牧水ファンとしては、そんなキャッチフレーズめいた呼称ではとても括りきれない、広がりと奥行きのある歌人に思えてならない。

確かに「旅と酒の歌人」という表現は、牧水の持ち味をよく伝えてはいるが、それを含んだもっと多面的な存在と見るべきではなかろうか。名作「みなかみ紀行」と、それに先立つ「津軽野」などを表わした紀行文作家、朗々として寂を含んだ天性の朗詠家、まるみを帯びて伸び伸びとした筆致の書の人…。それら一つひとつに触れる余裕はないが、例えば、牧水終焉の地・沼津に縁の深い今は亡き詩人の大岡信は、樹木や鳥たちへ向けた歌人の視線から、“エコロジストの先駆け”を感じ取っていたようだ。

静岡県が大正期の1926年、沼津の人々に親しまれてきた千本松原を伐採しようとした際、牧水はこれに強く反発して論陣を張り、様々な下草が繁茂する貴重なクロマツの樹林を守り抜いた。それから八十八年経った2014年秋、今度は沼津市が津波対策の築山計画の一環として“牧水のクロマツ”の伐採を進めようとしたが、結局は市民の反対にあって立ち消えになっている。多様な植生と、自然の風景を大切にする歌人の思いが、土地のDNAとして現在に引き継がれ、再び力を発揮したと見ていいだろう。

おそらく、伊藤さんご自身、汲めども尽きない多面的な魅力に惹かれ、牧水研究を続けているのだろう。この歌集では、旅ゆく歌人の足跡をたどって詠んだ歌が多い。四国の岩城島、信州の松代、比叡山、小諸城址、房州の根本海岸…。オオッ、やはり、津軽へも足を運ばれたのか。岩木山の歌はもちろん、津軽の風土から生じた“代表的な産物”とも言うべき「ねぶたと太宰治」を取り合わせた異色の一首は、南から来た歌人だからこそ収穫できた新鮮な果実と言える。

大正五(1916)年春、東北各県をめぐる念願の「残雪行」に出た牧水は、津軽地方の青森や五所川原、板留温泉では約一ヶ月も滞在し、自分が主宰した歌誌「創作」の会員らと盛んに交流した。歓待してくれた歌友のほとんどは初対面なのに、手紙形式の紀行文の中で「すべてが僕にはなつかしかった」と書いている。人に限らず、初めて見る自然にもなつかしさを覚える心の動きは、牧水の詩魂の源と言っていいものだろう。そこに感応し、伊藤さんが〈青森に初めて会ひしひとびとをなつかしきとは牧水の言〉と詠った一首は、牧水が初見の人々と駅頭で会った嬉しさの余り、〈やと握るその手この手のいずれみな大きからぬなき青森人よ〉と詠った一首と、まる百年の時を経て呼応しているかのようだ。

編集ジャーナリスト・牧水の面目

「残雪行」で青森に入る前、石川啄木の青春の地・盛岡にも立ち寄って歌友たちと交歓した牧水は、ゆかりの城址公園などで夭折した歌人を偲ぶ歌を幾つか詠んでいる。「啄木危篤」の知らせにすぐ東京・小石川久堅町の借家に駆けつけ、友人として臨終に立ち会った彼は、「創作」に啄木の歌や論考を掲載し続けた編集者でもある。新しい歌集で伊藤さんが詠っている〈啄木は七回にわたり「創作」に歌を寄せにき百三十六首も〉は、同時代に並び立った両雄のそういう関係も指している。端的で深い意味を持つこの一首は、それに続く〈三十四首の「九月の夜の不平」「一握の砂」に収められざりし八首あり〉と連動し、牧水の多面性の重要な一面に迫っている。

幸徳秋水ら十二人が天皇暗殺を企てたとして死刑になる「大逆事件」が表面化した際、明治四十三年十月号の「創作」は、その時代相を鋭く穿った啄木の「九月の夜の不平」と題する一連を一挙に掲載した。これらの中には当時の情勢から啄木歌集の「一握の砂」への収録さえ見送らざるを得なかったと見られる〈時代閉塞の現状を奈何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな〉など八首も収められていた。

「自然の子」と呼ばれた牧水は、いったいに社会性や思想性は弱く、論を説くのはあまり得手ではなかったが、おそらく自由を抑圧する息苦しさを覚える空気には理屈を超えて反発するような体質の持ち主だったに違いない。出版事業に情熱を燃やした編集ジャーナリストの面目であり、もっと言えば柔らかな自然詠の歌人の本領でもある。

それらの根っこは多分、伊藤さんの第十四歌集の表題にも採られた日向の気持ちのよい山河に由来するのであろう。〈遠音よし遠見よし春は 野への道ひとり行きつつ招かれており〉。ふるさとの春を讃えつつ歩む現代歌人の姿は、僕には自然の声に誘われるまま旅ゆく先達、牧水の姿と重なって見えてくる。

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