フォーラム随想世界遺産になったイースター島の国立公園
2017年11月15日グローバルネット2017年11月号
自然環境研究センター理事長・元国立環境研究所理事長
大塚 柳太郎(おおつか りゅうたろう)
今年の夏、イースター島を初めて訪れました。イースター島は、南太平洋の東の端に浮かぶ面積164km2の島で、現地ではラパ・ヌイ島と呼ばれます。私はオセアニアの人びとの環境適応や健康の調査をすることが多かったので、この島を一度は訪れたいと思っていました。イースター島は南アメリカのチリ領ですが、この島を発見し居住してきたのはポリネシア人なのです。
イースター島を有名にしたのは、何と言っても、人面を模した巨大な石造彫刻のモアイです。最大のモアイは高さが12m、重さが90tもあります。900体以上ものモアイが何のためにどのように造られたかとともに、この島が西方の有人島から2000km、東方の南アメリカ大陸から3600km離れており、発見と居住の歴史にも関心がもたれてきました。
ポリネシア人の祖先は、3300年ほど前に東南アジアからメラネシアにカヌーで移住した集団にさかのぼります。その子孫の中で、フィジー諸島を経てサモア諸島やトンガ諸島に達した集団が直接の祖先です。ポリネシア人はその後も遠洋航海を続け、北はハワイ諸島、東はイースター島、南西はニュージーランドへと、広大なポリネシアの全域に拡散したのです。
イースター島が発見されたのは今から800~1000年前で、ハワイ諸島発見の少し後、ニュージーランド発見の少し前でした。ポリネシア人がこれらの島々を発見し居住したことで、地球上の極域と高山帯を除くほぼ全域が人類の居住地になったのです。
オランダの提督ヤーコプ・ロッフェーヘンが、ヨーロッパ人で初めてイースター島を訪れた1722年、モアイは立っていたものの、島民たちは荒れた土地で食べ物にも窮する状態でした。その後も、島内では部族戦争が続き他部族のモアイを倒す「モアイ倒し」が横行し、1840年までにモアイはすべて倒されたのです。
一方、過去の植生を復元する花粉分析によると、イースター島は約600年前までチリサケヤシ(※:下記注)などの樹木に覆われていました。人びとはアジア原産のイモ類の農耕を行い海産物を利用し、モアイの建造から推測されるように、文明を発展させ階層化社会をつくっていたのです。人口も、最盛期の16世紀頃には7000人ほどに達したようです。
環境が劣化し文明が衰退した原因には、二つの説があります。一つは、人口増加と過度な土地・資源利用で、畑地の肥沃度が低下しカヌー材も枯渇したためとしています。もう一つは、最初の移住者が持ち込んだナンヨウネズミが増加し、チリサケヤシの実を食べ尽くすなど多くの野生動植物を死滅させたためとしています。
いずれにしても、モアイ建造を含むラパ・ヌイ文明は内部崩壊しました。さらに、19世紀にはイースター島民はチリ人やペルー人の奴隷狩りの対象とされ、島に感染症も持ち込まれ多くの死者も出しました。1877年に人口は111人にまで減少し、ロンゴロンゴとよばれる固有の絵文字を読める人さえ途絶えたのです。
私が見たイースター島は、近年の家畜放牧のために草原が広がり、まれに見られる樹木は移入種のユーカリばかりでした。しかし、島の42%を占めるラパ・ヌイ国立公園が1995年にユネスコの世界遺産になり、島のあちこちで、倒されていたモアイが再建され台座の上に立っていました。
物静かに立つモアイを見ながら、この島が発見されて以来の環境の変化と島民の波乱に富んだ生と死に思いを巡らせました。一方、現在の島民たちの言動から、彼らがモアイを守ろうとする強い意思を感じました。
「人類の創造的才能を表現する傑作」「消滅した文明の証拠」「文化遺産を代表する際立った例」であるラパ・ヌイ国立公園とモアイが、世界遺産として大切に保全されることを願うばかりです。
(※)チリ原産の樹高30mになるヤシ科植物で、甘い樹液に富み食用になる小さな実を数多くつける