フォーラム随想リトアニアの「杉原記念館」を訪れる
2017年07月20日グローバルネット2017年7月号
日本エッセイスト・クラブ常務理事
森脇 逸男
「雑学」を研鑽する仲間と二年に一度、海外旅行をすることにしている。この六月にはバルト三国に八日間の旅に出掛けた。特に事前の勉強もしないで向かったが、期待に倍するいい旅だった。
西からはドイツ、ポーランド、スウェーデン、フィンランド、東からはロシアと、大国に次々と占領されながら、独自の言語を守り、遂に独立を果たした三国で、見事に保存された中世の街並みやアールヌーボーの建築群など、見どころも多かったが、何と言っても感動したのは、リトアニアの第二の都会、カウナスで「杉原記念館」を訪れることができたことだ。
杉原千畝。第二次大戦勃発の直前、ナチスドイツの抹殺政策で虐殺必至の運命となり、アメリカに逃れようとし、シベリア鉄道を経て日本を通過するビザを求めて、当時リトアニアの首都だったカウナスの日本領事館に詰めかけたユダヤ人たちに、日夜を分たず応対してビザを発給した領事代理だ。
その数は千六百通、合わせて六千人のユダヤ人が命を救われた。今は高級住宅地だが、当時は中心街の外だったという領事館の建物は奇跡的に破壊を免れ、今は「杉原記念館」として保存され、公開されている。訪れたときは、修復作業中で、建物は幕に覆われていたが、昔の姿のままの門柱には「希望の門 命のヴィザ」と日本語で書かれた金属製のプレートが取り付けられていた。
館内に入ると、杉原がユダヤ人との応対に当たり、ビザを手書きした領事室が、机もそのままに残されており、外務省とやりとりした文書のコピーが飾られている。ある日突然出現したユダヤ人たちの行列に驚いた杉原は、外務省に指示を仰ぐ。外務省は防共協定を結んでいたヒトラーのドイツに気兼ねして、「行先国の入国手続きを完了し、旅費生活費に十分な携帯金を所持している者以外はビザを発給してはならない」と訓令するが、命からがらのユダヤ人たちにそんな余裕があるわけはない。杉原は外務省にビザ発給の許可を二度求めた後、人道上の問題だとして、発給に踏み切る。領事館が閉鎖され、ベルリンに転任することになっても、カウナスを離れる列車の車窓で、追いかけてきたユダヤ人に最後まで査証のペンを振るい続けたという。
訓令に従わなかった杉原に、日本の外務省は怒る。戦後帰国した杉原は、免官を言い渡される。敗戦による定員の大幅削減を理由にし、以来、一九八五年にイスラエル政府から杉原に「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)が贈られても、その主張を押し通し、「杉原はユダヤ人から金をもらってビザを書いたのだ」などと事実無根の中傷風聞まで流された。名誉が回復されたのは、外務省外交資料館にその業績を称える顕彰プレートが設置され、河野洋平外相が顕彰演説をする二〇〇〇年まで待たなければならなかった。
敗戦の後、対ロシアは日本にとって最重要関係の一つだった。ロシア語専門の職員はほぼ復帰していた。ことに杉原は、戦前の南満州鉄道に関するソ連との交渉や、独ソ開戦以前にいち早くドイツのソ連進攻を察知するなど、優秀な外交官だった。訓令不服従が免官の理由だったことは明白だ。
後年、杉原のビザで命を救われたユダヤ人から外務省に問い合わせが相次いだ。杉原は名前を「センポ」と呼ばせていたため、外務省は「『センポ・スギハラ』なる外交官は本省には存在しない」と回答し続けた。
杉原も謙虚な人物だった。戦後商社員となってモスクワ在勤が長かったが、部下にビザの話をしたことは全くなかったという。一九八六年七月逝去。享年八十六。出身地、岐阜県八百津町には、杉原の功績を称え、後世に伝えるため、命のビザモニュメントが置かれた「人道の丘公園」や、カウナスの領事館を再現した記念館が建設されているという。そのうちに訪ねてみたい。上司の顔色をうかがうだけの官僚たちもぜひ。