フォーラム随想自分を守る情報公開
2017年04月15日グローバルネット2017年4月号
地球・人間環境フォーラム理事長 炭谷 茂
先ごろ、福井県に設置されている高速増殖炉「もんじゅ」の廃止が決定された。メディアで「もんじゅ」が取り上げられるたびに、若かったあの時代を思い出す。
昭和53年から3年間、福井県庁に出向した。30歳を少し過ぎたころで、怖いもの知らずで、新しい仕事に挑戦することに生きがいを感じていた。プロパーの県庁職員からは、「世間知らずの若造だ」と思われていたに違いない。そんなことには無頓着だった。
そのころ福井県で原発の新規立地が続いた。県議会の議論は、原発問題に集中した。私は、自然保護課長として原発の新規立地計画の自然環境アセスメントの事務の責任者だった。
原発の新規立地に関する県知事の法律に根拠のある権限は、限られていた。福井県の原発立地は、すべて国定公園内にあったので、設置には自然公園法に基づく知事の許可が必要だった。許可の判断の前提として詳細な自然環境アセスメント審査を行う。県民の目は、おのずと自然環境アセスメントに集中した。
在職中に高浜原発3、4号機、敦賀原発2号機、「もんじゅ」の新設に伴う審査を担当した。審査は、事務的検討を経て、福井県自然環境審議会に諮られた。従来の審議会は、外部者の傍聴を認めなかった。記者団からは傍聴要求があったが、拒否し続けていた。
私に対しても同様な要求が出た。私は「マスコミに公開してもいいではないか。真剣に審査をやっていると知ってもらった方がいい」と考えた。審議会の会長も「自分もそう思っていたが、以前は事務方が強く難色を示してね」と賛意を示した。
40年前の審議会の公開は、珍しかった。「公開するな」と圧力がかかるのではと覚悟していたが、県内からはなかった。しかし、原発問題に関係のない東京の人から「目立つことをするな。霞が関に戻れないぞ」と言ってきた。なぜ「温かい助言」を伝えてきたのか、いろいろと想像を巡らせてみたものだ。
結果的にメディアへの公開は、成功だった。審査結果に対する信頼を増大させた。
この成功体験は、その後の仕事の基本になった。厚生省社会・援護局長の時に行った社会福祉基礎構造改革の際も情報公開を徹底した。関係団体との交渉を160回、各地での集会での説明を300回自ら行った。これらの内容は、すべて公開することにした。この結果、明治以来の日本の社会福祉制度を大きく転換させる改革は、円滑に実施できたと思う。
現在では、メディアで週に2回、各地の集会で月に10回、仕事について説明する方法によって、情報公開することを目標にしている。このような機会を絶えず用意することは、実は大変難しい。しかし、常時心掛けて努力していると、自然にこのような機会が設定されるから不思議だ。
性質上直ちに情報公開できないこともある。この場合は、きちんと書類、写真、録音を整理保管し、いつでも外部に提供できるようにしている。時々トラブルに発展する事案もある。訴訟になることも少なくない。しかし、この体制を取っていると自分を守ることができる。最高裁まで持ち込まれた案件もこれまで2件あったが、この準備によって勝つことができた。
どの組織においても情報を独占し、隠したがる人がいる。情報が権力の源泉だと思っている。策士、寝業師、影の実力者と称される人だ。「腹に一物あり」で、いつも陰険で暗い表情だ。これでは部下が離れ、組織が一体となって仕事ができない。社会から批判を受けた場合、抗弁が困難になる。
最近政治問題化している東京都の豊洲問題も水面下で用地交渉が行われ、情報公開が不十分なため、都民の理解が得られない。当時の関係者は、苦境に陥っている。
今や情報公開は、民主主義の基盤であるが、仕事に関係した人を守る役割もある。