食卓からみる世界-変わる環境と暮らし第11回 持続的な暮らしを守るために木を植える活動を~タイの山村でのコーヒー栽培の実践から
2019年04月15日グローバルネット2019年4月号
ルンアルン(暁)プロジェクト
中野 穂積(なかの ほづみ)
日本からのボランティアの学生たち7名とともに、山岳少数民族ラフ族の村サンクランへ向かったのは2019年3月3日。ちょうど日曜日で、仕事を休み教会へ行く人びとは村で待っていてくれました。
●有機コーヒー栽培の実践により、タイの山地民の自立を支援
1987年、タイ国チェンライ県メースワイ郡の山の麓に、リス族の子供たちが山の村にはない学校へ通うための生徒寮を始めて以来、山地民の教育支援を続けてきました。2008年から3年間、「コーヒーで生活向上を」という東京のNPOのプロジェクトに参加してからは、生徒寮開始とともに始めた有機農業をコーヒー栽培でも実践しようと、第2寮「暁の家」の生徒らが自ら育てたコーヒー苗木5,000本を山の上の畑に植えました。有機栽培に賛同する村人たちと励まし合い、コーヒー以外にも茶やアボガド栽培について学んできました。
ところが数年前からコーヒーの実に入り込み食い荒らし、卵を産み付け増え続ける害虫がまん延。駆除に大事な、収穫後のコーヒーの実の一掃作業に、腰を上げようとしない村人たちに思案しました。そこで、「では、私たちが加勢しましょう、それもボランティアを募って」ということにしたのです。
●半信半疑だった村人が、自ら飼っていた鶏で作った料理を食卓へ
村でそれぞれ自己紹介をしたときは、村人もまだ半信半疑の様子。夕食後、それぞれのホームステイ先へ分かれていきました。そして、作業当日の朝、マスクと帽子、手袋、手ぬぐいに運動靴の学生、暁の家のスタッフ、足元はゴム長靴やゴム草履の村人、総勢14名が、サンクラン村の中にあるナードーさんの畑に集まりました。ナードーさんの畑を優先したのは彼女が害虫の第一発見者で、一番被害が深刻だったからです。
3月はタイでは乾季の末期。土埃と暑さは覚悟の上でしたが、何年も取り残したコーヒー豆をため込んだ急斜面の畑で落ち葉を押しのけながらの一掃作業は、難航。落下する学生もいました。そして最初の畑を終わらせる見通しも立たないまま、初日が終了しました。
しかし、村人の様子が変わってきました。学生たちの努力に報いなくてはと思ったのでしょうか。夕食後、暁の家の卒業生アルニーの家の鶏が2羽絞められました。学生たちは初めての経験に驚き、鶏の断末魔に耳をふさいでいましたが、調理が始まる頃には興味を持ったようで懐中電灯片手に様子を見に行っていました。アルニーの台所の中には、米もみの袋の手前に、家畜の餌用のトウモロコシの袋が積み上げられていました。
翌朝、2羽の雄鶏は朝食のおかずとして、蒸し焼きになって食卓に乗せられました。頭も足も入っています。大事に育てられた鶏は、全部食べ切るのです。そのうちナードーさんの夫が、足を縛られた黒い鶏を抱えてやって来ましたが、すでに食卓に上っていた鶏を見て、その鶏は籠の中に放されました。昨日の作業へのナードーさんからのお礼の気持ちだったのでしょう。
山地民の人びとは、昔から来客時や祝い事、儀式に必要な鶏や豚などの家畜を飼ってきました。精霊崇拝や先祖崇拝からキリスト教へ、人びとが改宗していった大きな理由の一つが、儀式に必要な家畜を養えない貧しさから、と聞いています。
●日本の食文化に似た、郷土料理のような現地の食事
35年前、初めて訪れたラフの村で、昼食をごちそうになったことがあります。竹の床が踏み抜けないか心配しながら入った小さな高床式の家で、冷えた陸稲のご飯とカボチャの茹でたものをいただきました。それがなかなか喉を通らなかったのは、あまりにも質素な食事と家に衝撃を受けたせいだったと記憶しています。
その後東京の会社を辞めて、タイ北部で農場を開いておられた、亡き谷口巳三郎さん(循環式有機農法によりタイの農村開発に貢献)のお世話になり、ラフの村でホームステイしました。日本からの男子学生たちとともに、ラフの人びとと同じように籠を背負い、トウモロコシ畑へ収穫作業に行きました。その時の昼食が青いパパイヤにトウガラシを効かせたソムタムでした。大きなバナナの葉っぱの上に畑の傍らでもいできたパパイヤを大きなナタで削ぎ切りにし、豪快に塩とトウガラシであえてくれたのは、若い村長さんでした。ご飯は家から持参していました。
さて、今回の作業2日目の昼食には暁の家のスタッフが用意したおかずの他に、ナードーさんからのミカンと、餅の差し入れが添えられていました。お茶を飲み、餅や納豆、漬物などもある山地民の人びとの食卓は日本の食文化と共通したところもあり、ラフの人の瓜類のピーナッツあえなどはほっとする郷土料理のようでもあります。
●さらに木を植え水源を守る活動を
最後となる作業は、皆で声掛け合いながら取り残しのないよう進めました。ナードーさんの畑の作業が終わったのはすでに午後4時前。それから他の村人のコーヒー畑での作業へと向かいました。予定した作業の半分も終えることはできませんでしたが、作業後は学生も村人も、皆爽やかでした。
最終日の朝、黒い雌鶏のおかゆをいただきました。命をいただいて生きていることをかみしめながらの、村で最後の食事となりました。荷物をまとめ、村人と別れるために広場に集まりました。村人は、遠い所から来てくれた若者たちとともに働き、食事することができたことに感謝し、帰りの道中の安全を皆で祈ってくれました。「やり方がわかったから、これからは自分たちでやれるよ」と村人。村人の優しさとたくましさに心を震わせた学生たち。良い結果を得られたことに、満足しています。
35年前には55万人と言われた北部山間地の人口は、現在は100万人を超えると言われており、多くの人びとが換金作物の耕作のために森林を切り開いた結果、数年前から生活用水に事欠く事態になりました。村ごとに貯水地を作ったり、山水の水路を変えたり改善のために努力していますが、遠回りのようでも木を植え、水源の森を守ることが、確実で持続的な解決策になると思います。
「遠い所からよく来てくれた」。まだ若かった頃の私が山の人びとから受け取った言葉でした。焼き畑耕作しながらの厳しい移動生活の中で培われた他者への優しい心。受け取った大事なものが山の人びとの暮らしの中に生き続けますように。人びとがより豊かに暮らし続けることが可能な環境が守られ、生活の糧が得られることを願いつつ、さらに山に木を植える活動を進めていきたいと思っています。