21世紀の新環境政策論~人間と地球のための持続可能な経済とは第34回 田中正造と環境経済学
2019年03月15日グローバルネット2019年3月号
武蔵野大学教授、元環境省職員
一方井 誠治(いっかたい せいじ)
田中正造記念館
2018年の暮れに、以前から関心があった、群馬県館林市にある「田中正造記念館」を訪問してきました。毎年、環境政策論などの授業の初めに、学生に日本の環境問題の歴史について説明をするのですが、明治時代の「足尾」「別子」「日立」の三つの鉱害問題の中で、最も理不尽な結果を迎えたと言っていい「足尾銅山鉱毒事件」における事件の本質と田中正造の足跡を改めて学びたかったからです。それまで私がこの問題について得ていた知識の概要は次のとおりです。
明治維新後の1880年代、富国強兵、殖産興業のスローガンの下、銅鉱山は日本にとって極めて重要な意味を持つ産業でした。しかしながら、足尾銅山では、ここからの排水が渡良瀬川を経由して川はもとより、周辺の農地を汚染し大きな被害をもたらしました。周辺農民は当時帝国議会の代議士であった地元出身の田中正造を先頭に足尾銅山の鉱毒問題の解決を求め反対運動を行いましたが、根本的な解決にはなかなか至らず、被害の最も激しかった谷中村は廃村とされ、跡地は渡良瀬川遊水地となりました。
「田中正造記念館」は、館林市のほぼ中心部にあり、民間の住宅を使ってNPO法人が開設している施設です。まず驚いたのが、入場は無料であるにもかかわらず、担当の人が展示の説明をしてくれることでした。平日のお昼時でしたが、他には訪れる人もなく、手書きの多い資料を解説とともにゆっくりと見ることができました。
足尾鉱毒事件はなぜ廃村に至ったのか
ここでは、私がこれまで疑問に思っていたことの答えをいくつも学ぶことができました。第一に、別子(愛媛県)では工場の移転、日立(茨城県)では大煙突の建設という、いわば企業側での問題解決の努力があったのに対し、なぜ足尾では谷中村の強制廃村という事態にまで至ったのかというその理由です。
足尾では、鉱山と精錬所自体は山の中にあったこともあり、被害の中心は煙害ではなく、そこから流れ出る鉱毒を含む鉱山廃棄物と鉱毒水でした。それらは、大水が出て渡良瀬川が氾濫するたびに農地に流れ込み、被害を拡大したのです。ただ、渡良瀬川の氾濫自体はこの頃急に起こったわけではなく、昔から一種の自然現象として繰り返し起こっており、農民の立場からは定期的に肥沃な土壌が農地にもたらされるというメリットがあったといいます。
そのため、この問題を根本的に解決するためには、汚染元での徹底的な汚染防止が必要でした。しかしながら、当時の技術水準では、鉱毒水を直ちに無害化することは極めて難しく、それこそ、田中正造が主張した、操業停止までを考えなければならない状況であったものと思われます。また、鉱山経営者と当時の有力政治家との深いつながりとも相まって、当時の明治政府にとって、それはほぼ取り得ない選択肢であったろうことは容易に推測できます。
そのため、国と県は、この問題に対処するに当たって、汚染元での根本解決ではなく、洪水対策を行うことにより、被害拡大を抑える解決法を選択しました。それが、汚染が最もひどかった谷中村の強制移転による廃村と、そこを遊水地とすることによる洪水調節だったのです。
田中正造はなぜ無一文で倒れたのか
私がこれまで疑問に思ってきたことの第二は、田中正造が、衆議院議員を辞職し天皇へ直訴までしようとして農民とともに鉱毒問題と戦ったのにもかかわらず、なぜ最後は困窮し無一文となって病に倒れたのかということです。
これについては、田中正造自身の行動の経緯をたどると、何となくふに落ちるところがあります。すなわち、田中正造は、企業の鉱毒問題により、一方的に被害を受け、その揚げ句に安い買い上げ価格で強制退去を迫られた農民の状況を深く憂慮し、それを迫った当時の国、県に対して、人権問題の観点からそれは許されざることだという強い信念を持っていたということです。その思想は、有名な「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」という言葉に表れています。
その問題の根本的な解決には、企業や公権力に対する直接的な実力行使も辞さないという農民の思いを理解しつつも、田中正造自身は、帝国議会での論理的な追及や裁判など、言論の力による解決が可能であるという期待があったものと思われます。しかしながら、度重なる政府への追及も根本的かつ実効性ある対策には必ずしもつながらなかったことから、議会による言論の力に失望し、衆議院議員を辞職し天皇への直訴という最後の手段に打って出たのです。
その後、谷中村の廃村が正式に決まり、鉱毒による作物の生育不良により地価を不当に低く算定された買取価格に不満を持ちつつも、多くの農民はその地を離れました。しかし、その買取交渉に応じず、離村に反対し、家屋の強制撤去までされながら村にとどまった農民に最後まで寄り添ったのが田中正造だったのです。
谷中村を離れた多くの農民たちは、その理不尽さを追及し買取価格に関する訴訟まで起こした田中正造の行動について内心応援しながらも、国や県にあくまで対峙し、最後まで抵抗を続ける田中の行動にいつしか距離を置くようになったものと思われます。しかしながら、活動の最中、立ち寄った支援者の家で病に倒れ、亡くなった田中正造の葬儀には、多くの元村民らが集まり、その死を悼んだといいます。
なお、晩年の田中正造は、法廷闘争も続けつつ、国、県が行った当時の治水の在り方に対しても疑問を抱き、渡良瀬川の流域を調査し、より良い治水の在り方について調査をしていたといいます。また、亡くなるしばらく前に、最後に残された実家の家屋を地元の農業団体に寄付しています。
田中正造にとって、衆議院議員という肩書は、世間的な地位や名誉を求めてのものではなく、足尾鉱毒事件という、理不尽な鉱害問題の解決のための手段であったと思われます。その意味で、その手段が役に立たないとわかったとき、田中正造が議員を辞職したのは、ある意味当然のことだったのです。田中正造のこの行動は、政治とは何か、政治家以前に人はどのような存在であるべきかという問いを現代の私たちに重く投げ掛けているように思います。
環境経済学の観点から見た田中正造の思想
さて、このような足尾鉱毒事件について、もし現代の環境経済学の知識が当時あったとしたら、どのような対処が可能だったかということが頭に浮かびました。また、持続可能な発展という面では、田中正造の思想はどのように評価できるでしょうか。
環境経済学では、環境価値の推計という手法があります。足尾鉱毒事件の場合、鉱山による漁業や農業の被害など、環境被害がどの程度のものとなっているかは、ある程度金額換算をすることができます。その金額を基に、操業による利益から地元に補償金を出すという制度を作ることは、双方の合意があれば、あるいは可能だったかもしれません。
しかしながら、汚染を残しつつ長期間補償を続けていくような社会の在り方が健全なものであるとは到底思えません。その意味では、田中正造が残した「真の文明」の考えのとおり、人間の行為が「山を荒らし」「川を荒らし」「村を破り」「人を殺す」ものであってはそもそもいけないということを私たちは改めて深く認識する必要があるように思います。
これは、ハーマン・デイリーの持続可能な発展の3原則の一つである「『汚染物質』の排出速度は、環境がそうした汚染物質を循環し、吸収し、無害化できる速度を上回ってはならない」の考え方と一致するものであり、環境の価値を推計するまでもなく、人間の行為の前提として捉えるべきものです。
ハーマン・デイリーのこの原則は、極めて明確な原則ですが、実際の社会では、気候変動における大気中への二酸化炭素の排出など、現在においてもまだ、それが達成されていないという現実があります。