ホットレポート有明海再生への展望~東京で開催されたシンポジウムから
2018年11月16日グローバルネット2018年11月号
京都大学名誉教授
地球システム・倫理学会理事
舞根森里海研究所所長
田中 克(たなか まさる)
9月29日に「有明海の再生に向けた東京シンポジウム」(一般社団法人全国日本学士会ならびに地球システム・倫理学会主催)が、東京大学農学部中島ホールで開催されました。台風24号の接近の中での開催でしたが、併設された写真家中尾勘悟さん(肥前環境民俗写真研究所代表)の「有明海の今昔」に関する写真展への関心も高く、120名を超える方々に参加いただき、終日のシンポジウム会場ならびに終了後の懇親会場には、有明海再生への思いが溢れました。シンポジウムの目的や内容とともに、問題の解決につながる具体的な行動提言について紹介します。
企画の趣旨
東日本大震災は、海は限りなく大きな存在であり、この間忘れかけていた自然への畏敬の念を取り戻す必要性を厳しく訴え、私たちの遠いふるさとである海とともに生きることの大切さを改めて認識させられました。この間、目先の経済成長と明日の暮らしの利便性を最優先させ、世界的にも生物生産性が高く、生物多様性に富んだわが国周辺の海に深刻な影響を及ぼし続け、続く世代が海とともに生きる確かな未来に赤信号が点滅する事態を招きました。その象徴が、かつては生き物に溢れ「宝の海」と呼ばれた海が、今では「瀕死の海」に至った有明海といえます。諫早湾奥部に複式干拓のために巨大な潮受け堤防を設置したことは、地球システムに大きな分断を生み出しただけでなく、自然とともに生きてきた地域社会にも深刻な亀裂を生み出しました。
その後、司法を巻き込んで混迷を深める困難な現状を、水循環とともに生きる農林漁業の協同の輪を広げながら、共に生きる道を生み出す方向に切り替え得るのか、未来世代から試されています。有明海問題は、九州の一地方の問題ではなく、この国が抱えた根源的な問題であり、圧倒的多数の人々が暮らす都会の問題でもあります。このような背景の下に、地球システム倫理、環境倫理の問題でもある有明海問題の今日的意味を考え、未来志向の下に、再生への叡智を生み出すシンポジウムを東京で開催しました。
有明海シンポジウムを東京で開催する今日的意義
かつては限りなく豊かで、ムツゴロウやエツなど多くの特産的生き物を育み続けてきた生物多様性に溢れていた有明海は、20世紀後半からの相次ぐ開発の波の中で、今では漁船漁業者の漁獲物は中国の需要に支えられたビゼンクラゲのみという、海の生態系としては末期的症状に至っています。このような事態を招いた原因は多々想定されますが、中でも豊かな有明海の再生産を支える子宮と呼ばれたほど大事な諫早湾奥部に、全長7kmの潮受け堤防を世論の反対を押し切って造成し、わが国最大規模の広大な泥干潟を埋め立てたことが、“最後通牒”的な原因と見なされます。干潟の喪失とともに、本明川を通じて、さらに多良山系からの地下水でつながる陸域と諫早湾・有明海の密接な生態的つながりを強制的に分断したことは、自然とともに生きてきた人々の間にくさびを打ち込み、地域社会を分断・崩壊させるという深刻極まりない事態を招きました。それは、目先の経済成長最優先のこの国の在り方に深く関わる根源的な問題であり、政治経済の中心地である東京で有明海問題を考え、再生に向かわせる道を探ることが不可欠と思われました。
企画の背景
諫早湾奥部に潮受け堤防が設置され、その仕上げとして、1997年4月14日に“ギロチン”として国民に衝撃を与えた生態系の遮断は、その後有明海にさまざまな異変を与え続け、20年近くが経過しました。この時点で、今なぜ東京で有明海問題を考える必要性があるのでしょうか。
先に述べた企画の趣旨は以下の5項目、すなわち①有明海問題は日本の海環境再生の試金石、②福岡高等裁判所による確定判決の無効化に対する疑問、③開門は干拓地農業継続の大前提(干拓地農業者の叫び)、④都市と地方の連携は持続可能な社会の根幹、⑤分断からつながり再生への時代の流れ、に要約されます。中でも、福岡高等裁判所は自らが2010年に下した「潮受け堤防の二つの水門を開いて、5年間にわたりその影響や効果を調べなさい」との判決(その後確定)を、今度は開門の是非を一切問わず、10年を単位として更新される共同漁業権を持ち出し、「そもそも漁民には訴訟の資格がない」と驚くべき理由で、確定判決を無効化してしまいました。日本弁護士連合会や佐賀県弁護士連合会、さらに多くの全国紙や地方紙が、沿岸漁業の継続を否定するような判決に大きな疑問を投げ掛けています。それは、一見、開門によって有明海の再生を願う漁民や市民に大きな衝撃を与えたかに見えますが、その理不尽さはどちらに理があるかを自ら表明したものであり、再生への流れを後押しする役割を果たすに違いありません。
さらに注目すべきは、潮受け堤防の開門反対を暗黙の条件に干拓地に入植し、10年間農業を続けてきた農民から、開門して調整池を海に戻さない限り、冬は著しく冷え込み、夏は異常に高温化する干拓地で農業は続けられないと、公然と開門を要求する動きが生まれたことです。これまでの開門すると海水が流入し塩害のために農業ができなくなるとの長崎県の言い分がいかに実態に合わないものであるかを明白にしたのです。このような二つの出来事は、諫早湾/有明海の再生が非常に重要な転換期を迎えたことを物語っています。
今の時代、大都市圏中心の経済成長最優先の中で壊され続けてきた自然と自然、自然と人、人と人のつながりを紡ぎ直すことが、世界が模索する持続循環共生社会を築き直す上での本道であり、その流れは地方から生み出される可能性を予感させます。有明海問題はその意味でも、この国を地方から作り直す試金石であり、それは地方が供給源となる食料とそれらを享受する都市の関係を見直し、後者が前者を支える道を開くことでもあるといえます。何より、それは今を生きる私たち自身にとって必要なことであるだけでなく、未来世代が幸せに生きる権利を保障する、私たちの責務と思われます。
シンポジウムの構成
シンポジウムは、10時30分から17時30分まで下記囲みに記した内容で行われました。
●挨拶 近藤誠一(地球システム・倫理学会会長)
●企画の趣旨説明 田中 克(地球システム・倫理学会理事、舞根森里海研究所長)
●講演
1.地球システム倫理としての有明海問題
「クストーの思想に学ぶ」
服部英二(地球システム・倫理学会会長顧問)
「自然と共生する技術とは何か-有明海の再生に向けて」
鬼頭秀一(地球システム・倫理学会副会長、星磋大学共教授)
2.有明海の環境と生き物の多様性
「有明海異変と環境変化-諫早湾潮受け堤防設置との関連」
堤 裕昭(熊本県立大学教授)
「稚魚研究から見た有明海の異変と未来」
木下 泉(高知大学教授)
3.有明海で漁業と農業に生きる
「有明海を“宝の海”に戻したい」
平方宣清(佐賀県多良町漁師)
「干拓地で農業に生きる」
松尾公春(農業生産法人(株)マツオファーム代表)
4.有明海再生へ向けての展望
「韓国順天湾干潟の再生・保全から有明海再生を展望する」
木庭慎治(福岡県立伝習館高校教諭)、松浦弘(熊本県立岱志高校教諭)
「ラムサール条約と森里川海プロジェクトから有明海再生を展望する」
鳥居敏男(環境省「つなげよう、支えよう森里川海」プロジェクトチーム・副チーム長)
「森は海の恋人から有明海再生を展望する」
畠山重篤(NPO法人森は海の恋人理事長)
5.有明海再生へ向けての提言とりまとめに関する意見交換
●閉会の挨拶 岡田和男(一般社団法人全国日本学士会事務局長)
●有明海と諫早湾の今昔に関する写真展
会場中島ホール入り口において、宝の海と呼ばれた有明海・諫早湾の海と漁業を撮り続ける中尾勘悟氏(肥前環境民俗写真研究所代表)の写真展を併設
多様な分野の皆さんから有明海の再生につながる興味深い話題提供をいただきましたが、中でも長崎県から勧められるままに干拓地に入植し、干拓地農業の旗手として宣伝マン的に扱われてきた農業者が、10年を経過した本年、長崎県の意向に反して「開門しないことには干拓地での農業は続けられない」と発言せざるを得なくなった経緯の報告は、諫早湾干拓事業の本質を如実に示すものとして、筆者を含む多くの参加者に衝撃を与えました。
シンポジウムでの話題提供から提言を構想する
有明海と諫早湾干拓地からの報告は、現場に生きる人々の営みや熱い思いを大切にすること、それは漁獲物にしろ農産物にしろ、すべて生き物であり、命であることを思い起こす必要を促しています。命の源は水であり、海から蒸発した水が山に雨や雪を降らして森を育み、水を涵養して農作物を育て、さらに海の生き物を育む循環が根底にあるという自明の理を思い起こさせます。これまで、国策や県の都合で分断され続けてきた農業者と漁業者が、自然の水循環の仕組みの中で共に生きる民として手を携え協同することにより、有明海を再生して、持続循環共生社会を生み出す道が見え始めたと強く感じました。
そのため、私たちが取り組むべきことは多々ありますが、懸命に農地や海に生きる人々の営みによって生み出される農水産物を享受する都会に暮らす私たち自身が多様な形で支える仕組みを生み出すことが不可欠です。同時に、有明海/諫早湾を舞台にした不毛の対立から、続く世代の幸せを最優先に自然とともに生きる協調の輪を築くことだと思われます。
有明海の再生に向けた行動提起としての「提言」
本シンポジウムにおいて話題提供いただいた皆さん、有明海に関心をお持ちになってシンポジウムに参加いただいた皆さんそれぞれに、有明海の再生に向けた行動提言をお持ちだと思われます。それらを総合して一つの提言にまとめることが求められますが、ここでは、まずシンポジウムを企画した者の責任として、以下に個人的な「提言」をまとめて、皆さんの議論の素材とし、今後の行動につながればと願っています。
「提言1」
有明海の農林漁業を育てる“植樹祭”の提案
有明海の再生には、海で漁業を営む漁民、干拓地で農業を営む農民、諫早湾の後背地に暮らす諫早市民が、これまでの不毛の対立を乗り越えて、未来世代のために“共同作業”に参加し、自分たちの子供や孫のために何ができるかを語り合う場を設けることが非常に重要と思われます。決められた会議室で、これら三者が集まって話し合おうとしても(それさえも難しい中)、目先の利害や対立が先行してうまくいかないのではないでしょうか。
日常を離れて諫早湾や有明海が展望できる丘に集まり、開放された自由な雰囲気の中での植樹は、それらの木がゆっくりと確実に育って、やがて生態系の一構成員になることを実感させます。それは今を生きる者の利益ではなく、続く世代の幸せにつながることを確信できるに違いありません。そうした雰囲気の中でなら、お互いが素直に本音を語り、不毛の対立を乗り越えて協同する輪が広がるのではないかと期待されます。ここに提案する有明海の農林漁業を育てる植樹祭は、子供たちの未来を育む植樹祭でもあるといえます。
「提言2」
持続可能な地域社会を生み出す社会・経済学的統合研究の立ち上げ
本シンポジウムでもその一部が紹介されたように、これまで有明海異変のメカニズム、生き物たちの動向などに関する地道で継続的な研究が積み重ねられてきました。有明海問題は生態系劣化/分断の問題であると同時に地域社会の崩壊の問題であることがますます鮮明になってきました。その意味でも、これまでの自然科学的な調査研究のいっそうの推進と同時に、地域が自然資本を持続循環的に活用して生きていける社会の再構築に貢献し得る社会・経済学的な統合的研究を立ち上げ、科学がこうした深刻な現実問題から目をそらさず、正面から向き合い、その解決に貢献する姿を社会に示すことが必要と思われます。
提言1と提言2は、必然的につながることになり、市民運動は科学の進むべき本道を示し、一方、統合的な科学は多様な分野や意見の市民の行動のよりどころとなり、有明海再生への新たな道を開くことになればと期待するものです。
シンポジウムの成果の普及
本シンポジウムの概要は、主催団体の一つである全国日本学士会がほぼ隔月に発行する会誌『ACADEMIA』2018年10月号に掲載されています。さらに、もう一つの主催団体である地球システム・倫理学会の会報にも掲載される予定です。本シンポジウム開催の直接的なきっかけとなった『ACADEMIA』2017年7月号「有明海再生への道」に掲載された五つの論文と本シンポジウムの九つの話題を合わせて一冊の本『豊かな有明海を未来世代に-再生への提言』にまとめ、2019年夏までに刊行できればと願っています。
終わりに
限りある地下資源を使い続けながら、今なお目先の経済成長に固執し、世界最大規模の借金を膨らませ続ける現在。自己規制し得る文明を築くことは可能でしょうか。その道は、自然とともに生きる社会を築き直すことに違いありません。諫早湾奥部の泥干潟に極めて高密度に生息したアゲマキなどの貝類が食料源として中長期的にもたらす経済価値、私たちが都市生活から排出する窒素やリンなどの富栄養化物質を沿岸域に生息する底生動物(ベントス)が持続的に浄化する経済価値、さらにこれらの生き物が潮干狩りや海辺遊びを通じて私たちの心を豊かにしてくれる経済価値。これらを含む潜在的な生態系サービスを中長期的視点で、近年の科学的手法により評価すれば、いかほどになるでしょうか。諫早湾干拓事業には2,500億円が使われ、この膨大な費用は将来利益を壊滅させたのです。未来世代に押し付ける1,200兆円の借金を解消に向かわせる道は明らかです。文化資本を高めながら、有明海のそのような自然資本を持続循環的に活用するモデルとして生み出せれば、干拓のために殺りくした無数の生き物たちも許してくれるかもしれません。