GNスクエア
生涯を貫いたパブリックサーバント精神
地球・人間環境フォーラム・岡崎 洋 会長の逝去に寄せて岡﨑知事との8年
2018年08月20日グローバルネット2018年8月号
全国知事会 事務総長(岡﨑知事2期目の秘書課担当課長、人事課長)
古尾谷 光男(ふるおや みつお)
昭和60年(1985年)、初めてお会いしました。公害健康被害補償法見直しの説明に神奈川県庁に来られた時です。もちろん後に知事となろうとは思っておりませんでした。
平成7年(1995年)4月24日、初登庁。よく晴れた日でした。「地球・人間環境フォーラム」理事長を退任しての知事就任です。「官僚」出身、財政の専門家等とことさら強調されましたが、知事の本願は「環境」にあったと思います。神奈川の公害問題は収まりをみせたとはいえ、開発圧力は依然として強く、鎌倉の三大緑地、三浦の小網代の森など住民運動も盛んでした。水源林の荒廃、ゴミを廻る諸課題など、生まれ育った神奈川の環境を放ってはおけなかったのだと思います。
よく「対話行政」と言われました。環境政策課にいた私達にも「県民の意見を丁寧に聞いて」との指示があり、従来型の「説明会」を「県民討論会」に改め、回数も大幅に増やしました。懸念もありましたが、多数の参加を得て活発な議論が交わされました。丹沢等水源地の森林保全の取組、大規模緑地の保全、公共関与の産廃処理施設、地球環境戦略研究機関の設立、環境にやさしい都市・くらし世界会議等、様々な事業・施策が、岡﨑知事の下、具体化し実現していきました。
バブル崩壊後の不況は、神奈川の財政悪化を加速させていました。知事は「身の丈に合った財政」を唱え、「三つの10%削減目標」を提示し、行政のスリム化を進めました。公園や林道の計画を大胆に見直し、財源のアテのない「増分主義」を戒めました。「身を切る改革」を進めた上で、平成10年(1998年)「財政危機緊急アピール」を発し、県民へも理解を求めました。課題を隠さず、丁寧に説明する姿勢は一貫していました。
平成11年(1999年)4月、2期目。知事の直近で働くことになりました。遠い存在と思っていた知事が、急に身近になりました。議会資料の勉強会で、若い職員の説明を時間を忘れて聞く姿がとても印象的でした。埼玉の「ものつくり大学」を視察した際、古い旋盤を抱くようにして「僕は、旋盤上手いんだよ」と、戦時中の話をされました。口調が何とも温かいものでした。
水源環境税制、臨時特例企業税、ボランタリー基金、リースバック。思いもつかぬ提案があり驚いたものです。気鋭の学者と周到に議論を重ね、職員を参加させ素案を示す、簡単ではありませんが、堂々としたものでした。
いいことばかりではありません。職員の不祥事の連続には、本当に歯ガミしていました。ドームシアター、エコループ等厳しい指摘を受けました。後処理は御自分が率先して行い、他に転嫁することはありませんでした。信頼した人間は、トコトン信頼する方です。
退任後、御自宅近くのソバ屋さんで、美味しそうにお酒を飲む姿が目に浮かびます。
公人であり、心温かな市井人でした。