日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と 第13回フグと明治維新のディープなつながり―山口県・下関
2018年04月16日グローバルネット2018年4月号
ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)
下関市彦島にある下関市地方卸売市場南風泊市場。午前3時、黒斑のある生きたトラフグ(下関ではフクと呼び、「福」の縁起をかつぐ)の入ったトロ箱が並べられ始めた。20分後、市場に競りの始まりを告げるベルが鳴り響いた。周辺地域だけでなく全国で水揚げされる天然のトラフグやクサフグなどの8割近くが集まる競りが始まった。
●フグの加工技術が集積
40人ほどが集まる中、フグが入ったトロ箱を前に競り人が「一入り(一匹入り)はええか…」などと渋い声を上げる。「袋競り」と呼ばれる、この市場独特のやり方は、長さ40cmほどの黒い袋の中で指を握って値を決める。フグの売り手は卸売り業者である下関唐戸魚市場株式会社1社で、買い手は23社の仲卸業者。
声の主で天然物一番競り人は、入社25年目の松浦広忠さん。なんと白いTシャツ姿。取材した1月下旬のこの日は前日からの寒波で雪が舞っており、最低気温は-1℃。後で聞くと「声を出すので風邪はひかない。冬の荒海でフグを捕っている漁業者と同じ気持ちになるためです」という。
観光パンフレットやWEBサイトに出てくる袋競りに出ているのは松浦さんだ。「メディアで紹介されると売れ行き増につながるのでありがたい」と、先日も有名週刊誌の特集で扱われたことに触れた。
天然物は1㎏当たり5,000~6,000円、養殖は1,500から2,000円。天然物は5~8kgのもので1kg当たり5,000円程度、平均1匹3万円ほどと最高級フグの貫禄を示す。白子があるフグが高値になり、一匹ずつフグに触って確認しているという。
1時間ほどの競りが終わった。この日は天然物約1t、養殖3tの合わせて4tの商いだった。ほとんど東京や大阪などの大消費地へ向かい、地元に出回るのは1割程度という。
なぜ全国からフグが下関に集まるのか。フグは毒のある卵巣や肝臓などを取り除く除毒作業をして「身欠き」などにするが、下関はそのための特別の技術や施設が集積しており、流通システムもでき上がっているからだ。唐戸魚市場では、仲卸が身欠きにして一般の流通に乗せているので、他の市場とは趣を異にする。伊勢湾や遠州灘など天然のトラフグの漁獲が多い地域からも、下関へトラック輸送されるのである。近年フグが持つ猛毒テトロドトキシンはフグに固有のものではなく、食物連鎖で体内に蓄積されることがわかってきたが、この処理が難しいのだ。
そもそもなのだが、下関は豊かな漁場が近くにあり古くから漁業の町として栄えてきた。明治期には西洋の漁法が取り入れられ、トロール船による遠洋漁業やノルウェー式捕鯨の本拠地になった。大手水産会社は創業期の拠点を下関に置いて発展した。
取材を終えて市場から引き揚げた午前5時ごろ、付近の水産会社には明かりがともって仕事が続いていた。
●漁船の減船と後継者難
取材の後、調べてみると日本国内で消費されるトラフグをめぐる状況がどんどん変化していることを実感した。
南風泊市場では約30年前に年間約2,000tの天然物トラフグを扱っていたが、2016年には天然物が約127t、養殖物が約822tと15分の1にまで減少した。
トラフグは養殖が盛んになり、国内産だけでなく中国からも大量に輸入されている。また加工技術の流出などで下関を経由せずに流通するものが増え、地域ブランド化も進んでいる。かつては限られた場所でしか食べることができなかったトラフグだが、新たに参入した外食産業によって安価に提供されるようになった。
天然のトラフグの漁獲そのものも全盛期から激減している。松浦さんによると「萩市の山口県漁協越ヶ浜支店のフグ延縄漁船は全盛期の150隻が10隻に減り、後継者難が続いている」。30年ほど前の新聞社勤務時代に、先輩が漁船に1ヵ月ほど同乗して東シナ海でのフグ漁をルポしたことを思い出した。そのことを話題にすると松浦さんは「EEZ(排他的経済水域、1994年発効)で東シナ海には入らなくなった。現在では1ヵ月の航海というのはなく、長くて1週間、普通で3~4日程度。冬はしけが多いので出漁する日も限られている」。厳しい状況には「唐戸魚市場が売り先を確保すると価格が安定するので、漁業者と共存共栄できるよう頑張っているところです」と意気込みを語ってくれた。
●歴史舞台に何度も登場
市場のある彦島は下関市街の西側と橋でつながる9.8km2の島。約3万人が暮らす商工業地帯で、島という実感はない。取材を終えて、島の周囲を巡ると人気のない道路脇に「きぬかけ岩」があった。関門海峡で繰り広げられた壇ノ浦の戦い(1185年)で平家は滅亡したが、彦島にいた平家の女たちが残虐な源氏に追い詰められ、海に身投げしたとされる。また島の東側からは宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島(無人島)が関門海峡に浮かんでいた。
下関は大河ドラマが何本でも作れる場所である。幕末から明治にかけても激動の歴史舞台になる。攘夷論に基づいた四国艦隊下関砲撃事件(1864年)では、講和交渉で英国が長州藩に彦島の租借を要求したが、高杉晋作が突っぱねたとされる(諸説あり)。維新の立役者で初代内閣総理大臣になった伊藤博文はフグの味に魅了され1888(明治21)年、フグ食を解禁させた。フグ料理公許第一号になった春帆楼は日清戦争の講和会議の会場となり、伊藤は日本側の全権として清の全権大使李鴻章と相対し、1895年4月17日に下関条約調印を果たした。
関門海峡沿いに春帆楼、赤間神宮、亀山八幡宮など史跡が点在する。赤間神宮は、壇ノ浦の戦いで亡くなった安徳天皇が祀られ、境内には平家一門の墓、小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」の芳一堂がある。また高杉晋作の奇兵隊が駐屯した場所でもある。
亀山八幡宮は世界一巨大な「ふくの像」(1990年再建)があり、フグのシーズン到来を全国に告げる「秋のふくまつり」で豊漁と航海安全を祈る。その境内を歩くと、亀山砲台跡の石碑がある。四国艦隊下関砲撃事件の前年、久坂玄瑞の指揮により米仏蘭3ヵ国の艦船に第一弾が発射された場所である。また刺客に追われた伊藤博文が後の妻になる木田梅子と出会った場所でもある。
関釜フェリーが発着する国際港の情緒があり、関門橋や対岸の門司を望むシーサイドモール「カモンワーフ」や唐戸市場は多くの観光客でにぎわう。この場にふさわしい下関出身の歌手山本譲二『関門海峡』(作詞作曲も)の歌詞碑もある。歌詞の中にフグのヒレ酒が出てくる。見渡せばフグのモニュメントやイラストがあちらこちらにあり、まさに下関はフグの町。命を賭した戦いの数々、命を賭しても食べたいと思わせるフグ。どちらも命賭け。ちょっとやそっとじゃ下関のフグの歴史的ブランド力に勝ることは難しい。