フォーラム随想若き哲学徒の死
2015年12月15日グローバルネット2015年12月号
日本エッセイスト・クラブ常務理事
森脇 逸男
「ペンは剣よりも強し」という金言がある。19世紀のイギリスの戯曲作家リットンが作品で語らせた言葉で、本来の意味はかなり違うようだが、通常、言論の力は武力より強い、と解釈される。
しかし、ここではさらにもう一つ異なる意味に使いたい。つまり、ペンで傷つけた傷は、剣で斬られた傷より、被害者にもっと深刻な痛みを与えるということだ。
京都市に住むH氏は、その被害者の一人だ。私の旧制高校の先輩に当たるが、ペンでH氏に斬りつけたのは、これはもうかなり以前に故人となった、ルポライターの児玉隆也氏である。
児玉氏と言えば、1974年(昭和49年)に雑誌『文芸春秋』に「淋しき越山会の女王」を書いて、立花隆氏の「田中角栄研究」と相まって、権力の絶頂にあった田中角栄を退陣に追い込んだことで有名だが、もう一つ、悪名高いのは、その翌年2月、やはり文芸春秋に掲載した追跡レポート「イタイイタイ病は幻の公害病か」だ。
説明の必要も無いが、「イタイイタイ病」は富山県神通川下流地域住民に多発した公害病だ。全身が激しく痛み、咳やくしゃみで簡単に骨が折れてしまう。患者の体内のカドミウム濃度が高いことから、神通川上流の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)が垂れ流したカドミウムが骨粗鬆症に似た症状を発症させることが突き止められ、72年(昭和47年)「神岡鉱業所排出のカドミウムによる公害病」という高裁判決が確定した。
ところが判決の3年後、児玉氏が文春に載せたレポートは、イタイイタイ病の原因はカドミウムではなく、真犯人は医者の過剰投薬、栄養不足、風土病らしい、と述べる。裁判所で明快に批判された三井鉱山側の主張の焼き直し、公害企業のお先棒だった。
さて、H氏の話に戻ると、児玉氏が書いたのは、越山会の女王の前年の『文芸春秋』73年(昭和48年)6月号で、「若き哲学徒はなぜ救命ボートを拒んだか」というタイトルだ。
話は、日米開戦直前の41年(昭和16年)11月、日本海横断の貨客船気比丸がソ連の浮遊機雷に触れて沈没、乗船者446人のうち156人が死者、行方不明となった事件にさかのぼる。事故を報じる新聞に、船が沈みかけ、乗客が救命ボートに殺到したとき、「お先にどうぞ」と順番を他に譲った学生がいたという記事が載り、読者に感動を与え、学生の恩師の京都大学天野貞祐教授は、当時の『週刊朝日』に「哲学精神の実践」と題した追悼文を寄せた。学生が残した日記は『若き哲学徒の手記』として公刊され、戦後も講談社の学術文庫で再刊され、高校の国語教科書にも再録されている。
ところが、児玉氏のレポートは、学生が生を他に譲ったという人間愛に触れず、僅か数人への取材で、「船と殉じたのは、恩師から借りた哲学原書を守ったため」「泳げなかったためだ」(実際は泳げた)などとし、「美談とならない、その他多勢の死だ」と片付けた。
驚き傷ついたのは、実はこの学生の弟さんであるH氏だ。兄の死の意味を否定されて、H氏は気比丸の追悼録から生存者を捜して訪ね歩き、「船上で女性や子供たちを先にボートに乗せようと、一緒に船員の手助けをした」「学生が一人、本を見ながら甲板を離れず、船と共に沈んだ」「ボートに乗るときに学生さんに順番を譲られ、海面に下りてから船上を振り返ると、その学生さんはたばこを吸っていました」という証言を得た。
児玉氏は75年5月に肺がんで死去する。その前にH氏は調べたことを児玉氏に送った。返事は無かったが、同年7月に出版された同氏の『この三十年の日本人』に再録された文章は「若き哲学徒の死と二つの美談」と改題され、「美談とならない、その他多勢の死だ」という言葉は削除されていたという。しかし、H氏への釈明は無かった。児玉氏のペンで受けた心の傷は、剣で斬りつけられるより、深く、血を流すものだった。