21世紀の新環境政策論 ~人間と地球のための持続可能な経済とは第10回/持続可能性を確保する経済学はどうあるべきか
2016年01月15日グローバルネット2016年1月号
千葉大学教授
倉阪 秀史(くらさか ひでふみ)
社会的共通資本の考え方は、市場における需給調整を中心とした主流派の経済学を見直すことを求めるものでした。見直しの方向を自分なりに述べると、第一に、経済学ができることとできないことを明らかにして、市場外での意思決定が必要な範囲を明確にすること(経済学内部での変革)、第二に、市場での意思決定に代わる決定プロセスを検討すること(経済学外の理論との融合)という二つの方向が必要だと考えます。
エコロジカル経済学の考え方
市場における意思決定だけでは処理できないことの典型的なものが、生態系システムの中での経済の持続可能性です。この点に注目するのが、松下和夫先生が本連載の第3回で紹介されているエコロジカル経済学の考え方です。
エコロジカル経済学の従来の経済学との相違点については、ハーマン・デイリーとジョシュア・ファーレイが執筆した教科書『エコロジー経済学』に次のようにまとめられています。
「伝統的な経済学は、経済、つまりマクロ経済の総体を、全体とみなしている。自然や環境が考慮される限りにおいて、それらは、林産地や、漁場や、牧草地や、鉱物や、井戸や、エコツーリズムの場所など、マクロ経済の部分や部門として認識される。対して、エコロジカル経済学は、マクロ経済は、それよりも大きく包容力があり持続可能な全体、つまり、地球、その大気、その生態系の一部であるとみている。経済は、より大きな『地球システム』の開かれた部分集合とみなされる。そのより大きなシステムは、有限で、成長せず、太陽エネルギーには開かれているものの物質的に閉じられている。」
つまり、エコロジカル経済学では、人間の経済は、人間の意思から独立して機能する有限な「地球システム」に包み込まれる存在になります。
主流派経済学では、市場における需給が一致するところで決定された価格において取引を行うことが社会的な厚生を最大にするという考え方が信じられてきました。例えば、生産物市場の場合、市場価格ごとに、生産者が利潤最大化条件に従って供給量を決め、消費者が効用最大化条件に従って需要量を決めます。そして、両者が一致するように価格が定められます。
しかし、エコロジカル経済学の世界では、供給条件と需要条件のどちらかが人間の経済の範疇にとどまらず、「地球システム」から与えられる「モノ」が存在することとなります。例えば、あらゆる物質的な投入物は、その出自をずっとさかのぼれば、必ず「地球システム」にたどり着きます。また、あらゆる不要物も、引受先をずっと追っていけば、必ず「地球システム」にたどり着きます。
このとき、資源の採掘費用や廃棄物の処理費用といった人間の経済の範疇の条件のみで、資源価格や廃棄物価格を定めることは、資源の再生産や不要物の吸収といった「地球システム」の処理スピードを超えた資源採取や不要物排出につながりかねません。このため、物的資源価格と廃棄物処理価格のように「地球システム」に関連する価格の決定を、市場での意思決定に委ねることは適切ではないのです。
なぜ市場の意思決定に委ねられないのか
このように述べると、次のような反論を受けます。市場に参加する人が適切に判断すれば、重大な悪影響が発生するような選択については禁止的に高い価格になるだろう。したがって、市場に任せておけば良いのである、と。これには、以下のように再反論できます。
第一に、「地球システム」から得られるさまざまなサービスには価格がつけられていないものが多いことです。たとえば、人間の経済から排出される不要物の中で最大の容量を占めている二酸化炭素(CO2)の排出については、これまで価格がつけられてきませんでした。地球の平均気温が15℃程度であることによって、われわれは適度な居住環境を得ていますが、気候システムの温度調節機能には公共財的な性質(ほかの人の利用を排除できず、ほかの人の利用と競合しない)があり、市場が自然に形成される性質のものではありません。CO2の排出を抑えるならば、CO2の排出に値付けを行う制度を設計する必要があります。
第二に、市場に参加する人が「地球システム」の挙動について十分に認識し、知識を有しているとは限らないことです。生態系という複雑系のシステムの挙動に関しては、自然科学者ですらよくわかっていない部分が大きいのです。不十分な情報で行われる市場の判断が正しいとはいえません。
第三に、市場に参加する人は将来の価値を低く見積もってしまうことです。自分の一生の中で、今の100万円と将来の100万円を比較すると、今100万円もらった方がよいと考える人がほとんどでしょう。このように、市場では将来の100万円は今の100万円よりも価値が下がります。しかし、今生きている人と将来生きる人の価値は同じであるべきです。これを「世代間の衡平」と呼びます。市場での意思決定では、世代間の衡平が確保できないのです。
このような理由から、市場における意思決定では「地球システム」から得られるサービスの持続可能性を確保することができません。市場外の意思決定によって、その持続可能性が確保される水準で価格を決定する必要があります。
経済学自体の変革の方向
「地球システム」の一部として経済システムを捉え、その持続可能性を確保するという視点で見直すと、経済学は以下の二つの観点で変わらなければなりません。
第一に、生産物を評価する物差しをサービス量と物量の二つにすることです。これまでの経済学では、生産物は生産物価格によって評価してきました。これは、その生産物を通じて消費者にどれだけのサービスを提供し、効用をもたらすかによって評価しているものであり、生産物が有するサービス量を評価しているといえます。ここで、抜け落ちているのは、生産物の物量です。物量を全く持たない生産物(例えば、路上音楽家の音楽など)も存在しますが、通常、生産物は物量を持っています。消費した後に効用だけが残るのではなく、ごみも残るのです。このように、生産物は、サービス量と物量が一体となった、いわば「サービスの缶詰」であるといえます。
生産物を評価する物差しをサービス量と物量の二つにすることによって、「地球システム」との関係で市場外的意思決定を要する物的資源価格と廃棄物処理価格の位置付けが明確になります。また、物量を抑制するための努力を「省資源労働」とすれば、利潤や効用の最大化を目指す経済主体であっても「省資源労働」を行うことがわかっています。そして、経済全体として、より少ない物量でより大きいサービスを提供する方向での技術開発が進むことも明らかになっています。
第二に、生産要素を「資本」と「通過資源」に分けることです。「資本」は、エコロジカル経済学では「ファンド・サービス資源」と呼ばれている概念で、生産が行われてもなくならず、手入れをすれば復活する生産要素を指します。「通過資源」は、エコロジカル経済学で「ストック・フロー資源」と呼ばれており、生産が行われたら生産物の中に物質的に取り込まれる生産要素を指します。例えば、ラーメンを注文した場合、コックさん、鍋、包丁などは「資本」に当たり、麺、肉、ガスのエネルギーなどは「通過資源」に当たります。また、農地は「資本」であって、食される農作物は「通過資源」になります。エネルギーについては、そのエネルギーを生み出すシステムが「資本」であり、生み出されたエネルギーは「通過資源」です。化石燃料は、それを生み出す「資本」が失われた(今の時間的視野では再現できない)「通過資源」です。
このとき、社会の持続可能性を支えるものは、人、人工物、農地・林地、人と人との信頼関係といったさまざまな「資本」だといえます。このような概念整理のもとで、人的資本、人工資本、自然資本、社会関係資本という四つの資本ストックが健全な形で将来にわたって機能することが、持続可能性を確保するために必要であるという考え方が導かれるのです。