日本の沿岸を歩く海幸と人と環境と第92回 日本海の魚とコシヒカリが育んだ「すし王国」―新潟県・新潟
2024年11月20日グローバルネット2024年11月号
ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)
新潟県のすしは、日本海で捕れる新鮮な魚介類と、日本一おいしいコシヒカリが結合した食の理想ではないか。さらに、信濃川の治水や土地改良など、コメ作りのための人々の努力を知りたい。新潟ですしを食べれば、海の幸とコメ、自然や歴史なども含めた新潟県の魅力の深層に迫れるのでは、と考えた。何はともあれ、新潟県すし商生活衛生同業組合(すし組合)が共同メニューとして提供している「極み」を実感しなければ。組合の名誉会長横山範夫さんに解説してもらいながら、「新潟のすし」を食した。
●共同メニュー特上10貫
7月下旬、訪ねたのは新潟市で古くから栄えた古町 にある「鮨・割烹 丸伊」。横山さんが経営する創業50周年の店は、旅行ガイドブックに必ず掲載されている有名店だ。席数98、従業員11人で一流のすし職人をそろえている。
「極み」は各すし店の個性を大切にしながら、マグロ、南蛮エビ(甘エビ)、ウニ、イクラを基準にし、他は地物、季節もので構成する。特上の10貫、1.5人前。組合加盟の50店ほどが提供する。丸伊ではスズキから始まり、キジハタ、スルメイカ、バイガイ、アジ、イクラ、マグロ、南蛮エビ、ウニ、玉子焼きの順で握ってもらった。じっくり味わうと、至福の時間が過ぎた。
「極み」は4,000円(税別)。東京などと比べると半額程度で、かなりリーズナブルな印象だ。「お客様に新潟のすしを喜んでいただけるように、味も価格も特別なものにしています」と横山さん。新潟のすし普及とファンを増やそうという意気込みが伝わってくる。

「極み」(丸伊提供)
新潟の魚について横山さんは「阿賀野川、信濃川の大きな川が上流の森林から栄養を海に運んでプランクトンを育て、それが魚の餌となります。水温が低くてゆっくり育つので魚の身が引き締まっています」と自然の恵みであることを強調する。
すし米に使うコメは、昔ながらの風味やもちもち感などがあるコシヒカリ従来品種。毎年、栽培を委託している県内加茂市七谷の農家を従業員全員で訪ね、田植えを見学し、農家からコメ作りの苦労や思いを聞いている。「大地の恵み、農家の努力に感謝の気持ちを込めて一貫一貫を握っていると思いますよ」と、すし職人の思いを横山さんは代弁する。
すし組合が取り組んだのはオリジナルの「極み」や海鮮丼などのほか、2008年には南蛮エビを原料にした魚醤を開発した。新潟県水産海洋研究所と新潟県食品研究センターが共同研究したもので、新潟漁業協同組合とも連携しながら魚種を選ばず作れる製法を見出した。現在では計15種類のオリジナル魚醤がある。
すし職人一筋に60年の横山さん。東京などで11年働いた後、新潟市内で最もにぎわいのある古町の鍋茶屋通りに店を構えた。新潟のすしは戦後まで魚や肉以外をネタにした精進すしが中心だったが、江戸前の握りへと進化発展した。横山さんの尽力の大きさは、すし組合の「名誉会長」の肩書が物語っている。
北前船寄港地として栄えた新潟は日米修好通商条約の開港五港の一つでもあった。寺社や歴史的建造物が多くあり、古町は江戸時代から続く市街地。昭和初期には新橋(東京)、祇園(京都)と並び三大花街と呼ばれ、現在も高級料亭や老舗料理屋が多くある。新潟のご当地ソング『新潟ブルース』には当然、古町が出てくる。この日早朝、新潟駅に到着すると、歌にある新潟駅から万代橋周辺を歩いた。信濃川の悠々とした流れのそばにある新潟市歴史博物館では企画展「北前船と新潟 廻船と日本海海運の時代」の準備中だった。
●治水が生んだ穀倉地帯

市場で魚を仕入れる様子
「極み」を味わった翌朝の午前6時、新潟市中心部から車で20分ほどの新潟市中央卸売市場水産棟へ。ここで毎朝魚を仕入れている横山さんに同行した。競り落とした魚が仲買人の店舗に並ぶ。日本海や佐渡周辺で捕れたアカムツ(ノドグロ)、スルメイカ、アラなどがずらり。高級魚のアカムツは1尾2万円だった。
この日の扱いは普段の半分程度。五代目だという仲買人は「近年はサケ、スルメイカ、サンマやツブガイなどが減り、スルメイカは痩せています」。海水温の上昇が原因ではないかという。
足の踏み場もないほど魚が市場にあふれていた昔日の記憶がある横山さんは、海の環境や漁業についても一家言を持つ。小さい稚魚の混獲は防げないのか、磯焼けを防ぐ対策などなど。漁獲減少と反比例するように水産物の養殖が増えていることについて「今後も養殖が増えていくのでしょうが、自然の一部として天然の漁業資源が持続可能であってほしいですね」と願う。
市場を後にすると、信濃川河口から日本海沿岸を西に進んだ。日本海夕日ライン(国道402号)沿いの砂浜は、「海は荒海 向こうは佐渡よ」で知られる『砂山』(作詞:北原白秋)の着想の場所だという。
さらに進んで弥彦山(標高634m)の麓を走る弥彦山スカイラインからは佐渡島の浮かぶ日本海を望んだ。見えなかった反対側の越後平野は、コメの実る大穀倉地帯。越後平野は信濃川、阿賀野川などの大河川やその支流により海岸砂丘帯との間に土砂が堆積してできた。かつては大小無数の潟湖があり、河川の氾濫が繰り返された。江戸時代の僧侶でこの地に生まれた良寛さんは相次ぐ水害を嘆いた。
問題を解決したのは大河津分水だった。信濃川河口から55 kmの場所で信濃川と分岐し、日本海に至る9.1 kmの人工水路の名称だ。海沿いの寺泊から内陸に向かい、分岐点に着いた。300年前の江戸時代に計画された分水は1世紀前の1922(大正11)年に通水した。信濃川と分水の双方に堰があり、洪水は日本海へ流し、信濃川には安定した水を供給している。
分水の通水以前の越後平野は、低湿地の田んぼが多く、腰まで水に浸かりながら稲栽培をしていた。通水によって洪水被害が減少、排水性が向上した。水害に悩まされていた大地が穀倉地帯に生まれ変わっていった。信濃川大河津資料館前にある「大地に恵み 人に安らぎ」の碑文が偉業を記している。
●育種や栽培技術の向上
越後平野では低湿地の干拓など土地改良が進み、コメの育種と栽培方法の改善も加わった。1931(昭和6)年にコシヒカリの親である農林1号が新潟県農事試験場で生まれ、56年にはその系統の越南17号を全国に先駆けて県奨励品種に採用、「コシヒカリ」と命名した。また、県ぐるみで栽培技術を飛躍的に向上させた。元々、肥沃な土、気候、豊富な雪解け水という条件に恵まれており、70年ごろから新潟県産コシヒカリは、南魚沼など日本を代表するブランド米となった。新潟すしのシャリにまつわるコメ作りの歴史は感動的である。
大河津分水の前に立ち寄った寺泊魚の市場通りでは、番屋汁を食べた。ブリの身が4片、ベニズワイガニの足1本、エビ類、大根、ネギが入って200円。とてもおいしく、前日の「極み」に続く驚きのダブルパンチ。海の幸をおいしく味わえる日本に生まれてよかった、とつくづくと思った。Viva新潟!

信濃川に架かる万代橋