21世紀の新環境政策論 人間と地球のための持続可能な経済とは第64回 『レジリエンスの時代』が投げかけた課題について考える
2024年03月22日グローバルネット2024年3月号
武蔵野大学名誉教授、元環境省職員
一方井 誠治(いっかたい せいじ)
ジェレミー・リフキンの『レジリエンスの時代』
私が初めて読んだリフキンの本は、2015年に邦訳された『限界費用ゼロ社会』でした。そこでは、社会科学、自然科学にわたる著者の深く豊富な知識を基に、IT技術の急速な進展により情報取得の限界費用がほぼゼロになってきたことなどを引き合いに、再生可能エネルギーの普及による気候変動や格差社会問題解決へのインパクトなど、社会に与える影響が大胆に予測されており、その分析視点の斬新さ、緻密な考察による説得力の高さに衝撃を受けました。
そのリフキンの最新著作が2022年に出版され23年に邦訳された『レジリエンスの時代』(柴田裕之訳、集英社コモン)で、彼はこの著作のための情報収集に8年の歳月を費やしたといいます。本書は参考文献まで入れて460ページを超える大著ですが、私が理解した本書の内容を、例によって、やや乱暴に要約すると以下の通りです。
- 人類の「進歩」の原動力となったのは産業資本の発展であり、その中核となった概念が生産性を上げる「効率」の向上である。一方で自然は人類誕生以前から存在してきており、それを可能としてきたのが冗長性と多様性を核とした「レジリエンス」である。
- 人類は「進歩」の過程で自然界のさまざまな事物を財産化し、その機能を損なってきた。また、効率の向上の追求が、労働者の減少と消費者債務の増加をもたらしてきた。
- これまで人間は他の動植物とは異なる意思を持った自律的存在だとみなされてきたが、生態学的視点からは、人間は自然界の中でつながり合い、その中でのみ生きられる存在であることがわかってきている。
- 従来の経済学と資本主義システムは、現状のままでは理論と実践の両面で、複雑適応系のモデル化を開始することによってもたらされる変革を生き延びられない。「進歩の時代」は生態系をモデル化した「レジリエンスの時代」に道を譲る。
- 世の中を変容させるようなインフラは、「伝達の新しい形態」「エネルギーと動力の新しい源泉」「輸送とロジスティクスの新しい様式」である。
- デジタルで相互接続した分散型のシェアリングエコノミーはまだ揺籃期にあるとはいえ、18世紀の資本主義と19世紀の社会主義以降初めて世界の舞台に登場した新しい経済システムであり、景気指標としてのGDPの地位をも失わせつつある。
- 19世紀と20世紀の産業労働力が、もっぱら地球の収奪と消費に向けられていたのに対して、21世紀の労働力は、生物圏の保全・管理へと次第に重点を移していく。
- 今後20年以内に、グリーン電力は地域全体や世界中で共有され、人類全体を結び付ける。太陽光や風力から生成した電気の共有によって、化石燃料主導の工業文明の長い悪夢に終止符が打たれる。
- 科学界が提唱し、始まったばかりの「生態圏統治」という政治的な目覚めから新しい統治の概念が生まれつつある。これはノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムが記録した生態学的な地域である共有のコモンズにつながる。
- 生態圏統治を進めるにあたり、生態系が必要とするものにどのように社会が適応できるかではなく、社会の実利的なニーズに生態系をいかに適応させるかという、従来型の考え方による反対に直面するだろうが、もし人類が生き残って繁栄したければ前者の道をたどるしかない。
- 大衆民主主義では容易に衆愚政治になりかねないことから、代議制民主主義が生まれたが、これだけでは十分ではない。代議制民主主義は、今後、より地域のコミュニティーの参加を強めた「分散型ピア政治」に道を譲るだろう。
- 自然との共生は人間の幸福に直結するものであり、共感的な超越ではなく、数学的確実性と純粋理性に命運を託した人間性の本質についての誤った考え方は、急速に薄れつつある。
- 「レジリエンスの時代」には、私たちは共感的な欲求を深め、共感の拡張の次なる段階、すなわち、人類を生命の家族の中に連れ戻す生命愛の意識を目指す必要がある。
タブーを恐れないリフキンの論考
リフキンの主張は、社会はこうあるべきという、いわゆる一方的で規範的な論考ではありません。『限界費用ゼロ社会』でもみられたように、本書でも人間の本質に係る生物学的な研究成果が蓄積してきたこと、自然に関わる価値観を含めた人々の考え方も少しずつ変わりつつあることなどを捉え、従来型の社会経済と対比しつつ、それらがもたらす変わり得る社会経済の姿を論理的に描いてみせています。
現在の社会システムや私たちの価値観などに大きな問題があるという指摘自体は、つとに研究者や思想家などからなされています。しかしながら、本書においては、これまで皆が当然のこととして前提としていた人類の「進歩」をあえて否定し、「人間の自律的な存在」という認識をも正面から否定するという、常識ある知識人がそれを言ってはいけないという、一種のタブーをあえて破ったという印象を私は受けました。
特に、教育に関連し、もともと自然と自分とを一体のものと認識していた子どもたちに、誰もが他の生命主体からの自立性があるという「自由」と、幸福と同等の価値があるとみなされた「財産」は、「神から与えられた不可侵の権利である」と教え育ててきたことが「再野生化する地球上で致命的になった」という記述は、日本人にとってはそれほど驚きはないものの、キリスト教の影響が色濃く残り、西欧の哲学になじんできた多くの欧米人にとっては大きな衝撃だったのではないかと思います。また、環境保全は大事だが、それは必ず(従来型の)経済成長と両立しなければならないという現実の社会での根強い「成長不可欠神話」をもあっさりと否定したものと私は受け取りました。
ただし、リフキンの主張は単に世間の常識をあえて否定してみせるという、奇をてらったものとは思いません。要は、「人間は自然を必要としているが、自然は人間を必要とはしていない」という事実を冷静に考えたとき、人類が取れる選択は、自然が長い時間を経てつくりあげてきた生命維持システムを尊重し学びつつその中で生きていくか、あえて人間の思うように自然を改変しつつ人間の文明を続けていくかという二つの方向があるのですが、リフキンは、前者の方が、より人間にとって幸福であり、より平和で安定的に生き残れるという当たり前のことを言っているのだと思います。私はその考えに全面的に共感します。
ただし、リフキンのいうレジリエンスの時代を形づくっていく役割を担う「分散型ピア政治」は、その試みが各地で見られるものの、現実の社会で機能しさらに勢力を伸ばすかどうかは議論が分かれるところだと思います。逆にいうと、この方向に社会が動くためには私たち市民一人ひとりが自らの資質をいかにして高めていけるかという次の課題につながると思います。
リフキンの提起した課題について考える
以下は、リフキンの論考を受け私が考えた、今後、社会を変えていくために私たちが取り組んでいかなければならない大きな政策課題です。
まずは、子どもの頃から自然との触れ合いの中で自然や人との向き合い方をきちんと教え育てることが大事です。これは単に「環境教育」という狭い分野の教育ではなく、すべての教育分野に徹底すべき、人の価値観形成の基礎となるもので、相当の変革が必要です。
次に、再生可能な自然資本をベースとした社会づくりの基礎となる「ハーマン・デイリーの持続可能な発展の3原則」を社会構成員の合意の下、社会経済のルールの中に徹底的に組み込むことが必要です。
さらに、社会の形や人々の価値観をも左右する技術の発展の方向を規制する必要があります。要は、人間の生存に不可欠な生態系や地球環境をこれ以上劣化させる可能性のある技術は厳しく規制あるいは禁止し、逆に持続可能性を高める技術を伸ばすことです。