日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第83回 松前漬けを生んだ町の「歴史の資産」―北海道・松前町

2024年02月20日グローバルネット2024年2月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

 前回サクラマスを取材した積丹しゃこたん半島から南へ向かった。海沿いの漁港や住宅は、厳しい冬に耐える堅ろうさを感じさせる。目指すは渡島おしま半島の先端にある松前。かつて、北前船が海産物を北陸や大阪へ運ぶなど、蝦夷地の政治経済の拠点として繁栄した。また、松前は江戸時代の終焉となった函(箱)館戦争の記憶が残る。誰でも知っている「松前漬け」を手掛かりに、松前を探ってみた。

●海の幸で作る発酵食品

 松前城近くにある「蝦夷松前 龍野屋」に到着し、代表の龍野隆さんに会った。祖先は北前船の船頭、祖父の代から松前漬けの製造販売をしている。

龍野屋で試食した松前漬け

 松前漬けは、細切りにした地元産のするめや昆布を数日漬け込んで作った発酵食品。「こぶいか」「いかのしょう油漬け」と呼ばれる保存食だった。

 松前漬けの名前は1937(昭和12)年、函館山形屋の初代社長、海藤政雄氏が松前漬けを商品化してから広く知られるようになった。

 ネットなどで検索すると「するめと昆布に加えて、北海道で漁獲が多かったニシンの卵(カズノコ)を使ったのが始まり」などと出てくる。だが、海藤氏の作った松前漬けは、それまでの塩漬けからしょうゆ漬けに変えたが、カズノコは使っていない。ニシン漁が盛んだった頃、ニシンは、もっぱら肥料として使われていたので現在とは事情が異なるようだ。

 では、松前漬けの「松前」の名付けは? 海藤氏から直接話を聞いた龍野さんによると「歴史文化があり、北海道の代名詞といえる松前に敬意を表したかったから、と話していました」という。現在普通に見ることのできるカズノコ入りは、昭和40年(1965年)代から広まったようだ、という。

 酒のさかなでも、ごはんのおかずでもおいしい松前漬けは、現在ではどこのスーパーの食品棚にも並んでいるし、材料を混ぜて自分で作るセットも売っている。日本の国民食の位置にあることは確かだ。

 龍野屋で製造している松前漬けを試食させてもらった。看板商品の特製品は、砂糖や調味料を使わず、するめと昆布をしょうゆのみで味付けしたものだ。素材が発酵した素朴な味で、甘さはほとんどなく優しいうま味を感じた。「材料が味を決める」とし、新鮮で良質なするめと函館周辺で採れる最高級の白口浜真昆布を使っている。カズノコ入りのものやソーラン漬け(するめが白い)も試食し、おいしさを確かめた。

 松前周辺は、するめの原料であるスルメイカが回遊する絶好の漁場。一番おいしい時期である10月下旬から12月下旬に松前沖にやって来る。

 だが、肝心のスルメイカ漁獲量は全国的に減少している。2004年の23万4,603tが22年は2万9,700tという惨状だ。不漁の原因は海洋環境の変化などとされるが、漁業者や水産加工業者の不安は募る。龍野さんは「するめの値段は7倍になり、製品価格も2回値上げしました」と窮状を語る。

●土方歳三に攻められる

 松前の歴史を見てみよう。和人が蝦夷地に進出し、アイヌとの戦いなどを経て松前の蠣崎慶広よしひろが豊臣秀吉、徳川家康から蝦夷地の支配権を認められ、初代松前藩主となった。姓を松前に改め、1606(慶長11)年には松前城の元になる福山だてを完成させた。

 コメが収穫できない「無高の藩」だったが、蝦夷地の水産資源や森林資源を管理した。江戸時代から明治時代に日本海を行き来した北前船で、するめ、昆布、肥料の鰊粕にしんかすなどを送り出した。下りの船で大阪や京都の文化が伝えられた。蝦夷地の拠点として繁栄した一方で、アイヌとの交易権を商人に与える場所請負制でアイヌを苦しめた。

日本海側から見る松前城

 蝦夷地周辺に外国船が出没するようになると、江戸幕府は北方防備強化のために、松前藩の蝦夷地の支配権を奪ったことが何度かあった。小藩の松前藩が注目を集めたのは幕末維新。十三代藩主松前崇広たかひろ)は外様大名から老中まで上り詰め、要職を務めた。同じ頃、小説『幕末新選組』(池波正太郎著)の主人公のモデルである松前藩脱藩浪士の永倉新八が活動していた。

 松前城は1868(明治元)年、榎本武揚率いる旧幕府軍の新選組副長土方歳三ひじかたとしぞうの攻撃で城を奪われ、藩士は敗走した。翌年、新政府軍が城を奪回したが、藩内のクーデターやたて城への移転(館藩となる)などの混乱が続き、1871(明治4)年の廃藩置県で藩は姿を消した。

 渡島半島には見所が多い。乙部おとべ町に函館戦争の官軍上陸地があり、江差では幕府海軍の榎本武揚の開陽丸が復元展示されている。また国道脇に「北海道和人文化発祥の地」の標識があった。近くには和人文化の痕跡として史跡上之国館跡や勝山館跡などがある。

 国宝だった松前城は1949年の火災で天守などが焼失、61年に鉄筋コンクリート造りで再現された。近くの法幢ほうどう)寺に隣接する松前藩主松前家墓所を訪ねた。墓碑は55基あり、扉のある石廟が23基。その石室は同じようなデザインで墓所に整然と並んでいた。

 墓石の材料は、自然石や砂岩を除き、緑色凝灰岩と花崗岩に分かれる。緑色凝灰岩は大半が越前石(笏谷石しゃくだにいし)で、時代が新しくなると瀬戸内産の花崗岩になる。石材は北前船の安定を保つバラスト(底荷)として積み込まれて松前に運ばれたとされ、19世紀以降、瀬戸内海を経て大阪に至る西廻り航路が開発された経緯と重なるようだ。道の駅「北前船 松前」のそばには北前船の船着き場跡「松前福山波止場跡」があった。

●人口減少防ぐ総合戦略

 現在の松前町は少子高齢化が進んでいる。人口は6,045人(2023年11月末)でピークの20,072人(1955年)の3分の1以下だ。松前町は「松前町創生総合戦略」を策定して「歴史と文化」の町の復興を目指す。

 松前町の衰退に心を痛める龍野さんは「松前の歴史文化には非常に大きな価値があるのに、うまく利用できなかった」と残念がる。それらの「未利用資源」を生かすことを提言してきた。松前には幕末維新のような激動の記憶が残る。賢者は歴史から学ぶ 。生成AIの登場など猛烈な社会変化の中で、羅針盤の役割を果たすのは歴史ではないか、と筆者は思う。

 松前漬けは地理的表示(GI)保護の対象外なので、全国各地で作られている。それでも発祥の地である松前の名前それ自体に価値がある。江差追分全国大会や調味料選手権などのイベントを参考に、松前で松前漬け選手権を開催してはどうだろうか。知名度アップは観光振興だけでなく、住民の意識を高めるきっかけになり、多方面へ波及効果を生むだろう。WEB上でもいいから松前漬けミュージアムを設け、発祥の地から世界へ情報発信をすることも考えられる。

 壮絶な歴史を忘れたように、春になると松前公園には1万本約250種類のサクラが咲き、松前さくらまつりが開催される。函館戦争を題材にしたテレビドラマの主題歌『夢の吹く頃』(歌:さだまさし)の歌詞にある「時代を越えて生き続けて…」という夢は、松前城の木造復元計画につながるのだろうか。

松前港のイカ釣り漁船

タグ:,