フォーラム随想パプア・ニューギニアの橋

2023年11月15日グローバルネット2023年11月号

長崎大学大学院プラネタリーヘルス学環長、熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授
渡辺 知保(わたなべ ちほ)

 私が大学院時代に所属した研究室(後の職場でもあった)はヒトと環境との関係がテーマだったが、ちょっと(というか、かなり)変わっていて、大学院に入ったらまずは実験室、それからフィールドに出て研究という方針があった。
 私は実験研究で博士論文を書いたが、この方針のおかげで、博士課程の途中でパプアニューギニア(PNG)に3ヵ月ほど調査に同行させてもらうという機会を得た。PNGの専門家である助教授のOさんと2人で、調査本隊に先駆ける形でインドネシア国境に近い西部州に入った。40年前のインターネットもない頃で情報も乏しく、実験室にばかりいた私は期待と不安が半々で現地入りした。標高1500mほどの高地と低地の2つの調査地帯で、それぞれガイドとして雇った村人たちと数ヵ所の集落を訪れ、Oさんが「住民台帳」を作るのを“手伝う”のが仕事だった。3ヵ月は長くも短くもあったが、極めて密度の濃い時間を過ごしたと思う。今でも鮮明な多くの記憶の中に高地で村々を回った際に渡ったいくつかの橋がある。

 訪れた起伏の激しい山岳地域一帯には車はなく、道といえば頼りない小路だけ。所々に橋が登場する。よく覚えている橋の一つは、3m下を茶色の激流が渦巻いていた。丸木を渡して、上面に階段のようなステップを切って滑りにくくはなっていたが、数mの橋がえらく長く感じられた。渡り切ったところで、前を平然と歩いていたように見えたOさんが、「いやぁ、これ、落ちたら終わりだな」と緊張と苦笑いの混じった顔で言った。ふと上流方向を見ると、あぜんとしたことに、30mも離れていないところに立派な木の橋が架かっている。帰路はそっちの橋を通って帰ったが、ガイドの村人たちは行きと同じ橋を渡っていた。彼らにとってはどっちも渡れる橋なのだから近い方を行けばいいじゃないかということだったのだろう。
 もう一つの記憶は、長さ10mくらいで直径約50㎝の巨木を一本ドンと渡した丸木橋。下は巨岩がゴロゴロの枯れ谷で、高さは5mは超えていただろう。ガイドたちは両手を横に少し開いてバランスをとって渡って行く。私は真ん中辺りまで行ったところで進退極まった。しゃがんで木をまたいだ格好で這いずって行くしかないかと思い始めた時、ガイド長だったピーターがするすると戻ってきて、そっと手を差し出してくれた。それを握ろうとすると、そうではなくて、彼の手のひらに私の指先を乗せろと身振りで言う。その通りにすると驚くほど安定が良くなり、安心とまではいかなかったが、それほど苦労もなく渡り切れて彼に礼を言ったのを覚えている。同時に安全な介助方法を知っている彼らの経験に感心した。
 橋ついでにもう一つ。この地域の家は村の周囲の森から採ってきた木々で彼ら自身が造っているが、雨が多いこともあって地上1m余りの高床になっている。家に上がる階段は細木にステップを切って立て掛けてあるだけだが、そこを2歳くらいのスッポンポンの子どもが(苦もなく)上り下りしていた。バランス磨きは幼児時代から始まっているわけだ。
 怖い目も楽しいことも含めて毎日が驚きと新鮮さに満ちていた。今、考えてみると、その環境の中で意識下に感じていたのは、自分のどうしようもないか弱さだったのだろう。起伏だらけの高地でも熱帯雨林の低地でも、彼らは私たちが都会で暮らすのと同様に、自信に満ちて生きているようだった。

 「Oさん」とは、このコラムの執筆も担当されていた大塚柳太郎さんで、誰も思ってもみなかったほどの若さで1年前に他界されてしまった。私にはチャレンジに満ち過ぎた環境の中で、それこそ新宿に散歩にでも来たように歩き回っている姿を見て、本当のフィールドワーカーとはこういうものなのだと思ったのを覚えている。この場を借りて、今も天国を元気に歩き回っているに違いない大塚さんにありがとうと申し上げたい。

タグ: