ホットレポートわが国で真の温暖化対策ができない理由
2023年11月15日グローバルネット2023年11月号
循環共生社会システム研究所 代表理事
内藤 正明(ないとう まさあき)
世界の批判を浴び続けて
国連気候変動枠組条約の締約国会議(COP)が開かれるたびに、わが国は「化石賞」という不名誉な賞をもらってきた。化石賞は、気候変動に取り組むNGOのネットーワーク「CANインターナショナル」が、交渉において気候変動対策を後退させる言動を行った国に与える賞だ。最近のG7広島サミットでも、地球環境・エネルギー問題についての会合で、日本から提案していた“日本の誇る脱炭素ボイラー技術”が、ヨーロッパ諸国から批判を浴びて、結局大幅な条件付きでどうにか盛り込んでもらえることになったというニュースがあった。これは、日本の温暖化対策の背後にある技術、経済、社会のすべてに関わる(悲劇的とも言うべき)問題点が露呈された出来事である。
なぜエセ技術しか出ないのか
その話題の技術は、「ボイラーの燃料にアンモニアを混焼することで、二酸化炭素の発生が抑えられる」という燃焼技術である。案の定、批判を浴びる結果となったが、その内容は「そもそもアンモニアを作るのにエネルギーが必要」、「アンモンニアとの混焼では大気汚染対策が必要」という当然出てくる指摘である。
なぜ技術先進国を標榜するわが国がこのような技術を持ち出したのか。この背後には、わが国の政策決定の裏の悲劇的な状況がある。それを一言でいえば、産業界と役所(特に経産省)が一体となった利益共同体の力が、地球環境対策をも支配しているからである。
国内ならコップの中でやり合っても力関係で押し切れるが、地球環境問題ともなると世界の批判にさらされる。今回も、国内的には何とか生き延びさせないと、経産官僚としてのメンツが立たないので、『我々は、低炭素及び再生可能エネルギー由来の水素並びにアンモニアなどのその派生物は、摂氏1.5度への道筋と整合する場合、産業及び運輸といった特に排出削減が困難なセクターにおいて、セクター及び産業全体の脱炭素化を進めるための効果的な排出削減ツールとして効果的な場合に、温室効果ガスであるN2Oと大気汚染物質であるNOxを回避しつつ、開発・使用されるべきであることを認識する。』という驚くべき迷文にして文言に残した。これほどの迷文は、最高学府を出てキャリア官僚となった秀才の力でないと無理である。なお、これに匹敵する歴史に残る迷文は、「第一次環境基本法」の中の「環境税」の条項である。あまりの迷文にその努力に感動さえ覚える。しかし優秀な頭をこんな「霞が関文学」のために使うのは当人としても良心があれば無念であろうが、これが宮仕えと諦めないと出世しない。そうすると最後は官邸秘書官にまで昇り詰める。
国内の専門家も、多くが国から研究費をもらって経済界・経産省連合のお先棒を担いでいる。大して深い信念もない学者・研究者を選んで研究費を提供してお墨付き発言をさせる。そんな連中から役立つ成果が出た例はこれまでも皆無に近い。むしろ無残な結果が残っているのは、技術評価委員などとしてそれに立ち会わされた筆者の経験からも間違いはない。
社会全体が産業活性化こそがわが国の「国是」であるということなので、このような「ガラパゴス化」が、産業のみならず、経済、政治のすべてに通底するのは当然のことである。
>経済成長を前提とする限り無理
こと温暖化に対しては、単に産業界がもうかるエセ技術ではどうにもならないことは明らかで、ここまでそれ一辺倒で進めてきた経産省・産業界連合の成果として、何か画期的な「対策技術」なるものが生まれただろうか。
「水素社会で解決」などと騒いできたが、水素はどこかからか湧いて来るわけではない。ソーラー発電など自然エネルギーで水素を作るという、いかにも素人には良さそうに聞こえるが、一旦電気にしたものを別のエネルギーに転換するのが非効率なのは技術の常識である。それでも一理あるとするなら、時間変動の大きい自然エネルギーの貯留手段としての役割である。そもそも自然エネルギーのことを、エセ情報を使って徹底的に引きずり下ろしてきた通産省(当時)が、今になって水素社会だというのも笑止であるが……。
もしエネルギーの貯留なら、すでに原子力のバッファーとして揚水発電施設が存在するのだから、それを利用すれば新たな投資は要らない。もし貯留技術として水素が最適というなら、その評価はどこにあるのか。多分、どこかの産業にとってそれが好都合だったからでは?と勘繰りたくなるが……。
真の温暖化対策はあるが……
そもそも温暖化は過度の工業化によって引き起こされたものであるから、その主犯たる工業界が手控えることなく、さらにその力を使って解決しようとするのは、原理的に無理がある。
少しLCA(ライフサイクルアセスメント)をすれば、「脱炭素」のために簡単にできることはたくさんある。たとえば、日本の家庭の最大のエネルギー需要は風呂のお湯であることを考えると、高価なソーラーパネルよりも、安価な「太陽熱温水器」が望ましい。
また日本の都市インフラで最大の二酸化炭素排出源は鉄筋コンクリート建築であるから、これを「木造に置き換える」などがあり得る。樹木の吸収が頻りといわれてきたが、吸収しただけでは炭素中立といわれるように、良くて元に戻っておしまいであるが、鉄筋・コンクリートのような高い二酸化炭素負荷源を木材で置き換える“代替効果”に樹木を生かす方が確かである。また、車に替わる交通・輸送手段としては海に囲まれたわが国では、舟運の活用が真のエコであり、災害時にも有効であろう。
なお、このような技術は安価でシンプルなので、中小零細産業が担当する製品である。わが国では高価で難しい技術が採用されるのは、それが巨大産業にとって利益になるからである。このような事例を見ても、適正技術が採用されるには、社会・経済からその背景を成す「どのような社会を目指すのか」という、理念・価値観・倫理観まで含めた社会変革が必要である。そうなると政治体制の大変革も必要になる。それは、今の日本では既得権益に立ち向かういばらの道である。
残された道は何か
今、われわれが直面している地球環境問題は「人間社会の規範」、つまり社会集団間の利害調整を越えて、それを取り巻く大きな地球自然の問題である。つまり、すべての人類の存亡に関わるという自然界の摂理である。そう認識して既得権益に立ち向かい、「人類の存亡のために」闘う志のある一部の若手学者や実践者も出てきている。せっかくの志に水を差すのは申し訳ないが、地球環境の危機状況からすると、残念ながら今からでは間に合うとは思えないが、それでも最後の希望を託したい。
最終的には、『もう避けられない危機なら止めようとあがくのではなく、「救命ボート」を造ってせめて気付いた者だけでも生き延びる(緩和⇒ 適応)』というのが筆者の提案である。
最近国も法律でいう「適応社会」は、ITや水素などの先端技術を用いた脱炭素社会を提案している。筆者の提案は、自然に順応して、「資源、社会サービス、カネ」が内部で調達され循環するもので、これはグローバリゼーションとは対極にある。このような社会は巨大産業に頼らず、小さなコミュニテイーが自らの生存を賭して、自分たちの力と知恵、地域資源を生かして創るものである。
人類はもうそこまで追い詰められている、というのは筆者の個人的な見解なので、間違っていることを祈るのみである。しかし、被害を引き受ける次世代の代表であるスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんの発言は、そのような甘いことを強烈に指弾している。
加害者世代は地球環境問題の複雑さをこれ幸いと、いまだに自分たち世代の欲望追求こそがすべてという価値観にしがみつかず、次世代の悲痛な声に振り向かなければならない。