日本環境ジャーナリストの会からのメッセージ~日本環境ジャーナリストの会のページ被災直後のエネルギーと食糧
2016年10月16日グローバルネット2016年8月号
芦﨑 治(フリーランス)
人間が生きている限り、エネルギーを使って生存している。しかし、健康な体であればあるほど、自分がどのくらいエネルギーを消費して生きているのか、自覚するのは難しい。
東日本大震災後に、岩手県釜石市と大槌町の病院を取材した。市役所、県警、消防署が壊滅的な打撃を受け、孤立状態だった釜石医療圏で、一体どのような医療活動が可能だったのかをまとめ、『いのちの砦―釜石方式に訊け』(朝日新聞出版)として出版した。
取材から、さまざまな問題点が浮き彫りになった。とりわけ驚かされたのは、三陸沿岸部は過去に三度大きな津波を受けているにも関わらず、医療機関の備蓄食糧は少なく、非常電源設備の設置場所や非常電源用のエネルギーになる重油の備蓄にも、案外無頓着だったことだ。
地下に非常電源設備を造った病院は津波で設備が水没した。日頃から設備のメンテナンスを怠った病院は非常電源が稼働しなかったのである。
県立釜石病院は、「災害拠点病院」の指定を受けている。釜石医療圏の中核的な急性期病院※である。3・11当日の入院患者数は205名。これに対し職員の数は234名。一つの病院内に439名もいたのである。
一般病棟は272床が満床なので、272床×3食×3日分という計算で備蓄食糧が確保されていた。幸いその日は金曜だったので、午前中に業者が入院患者用の食材を土・日・月曜3日分を搬入していた。
患者だけの備蓄食糧
ところが緊急時の備蓄食糧に職員の分は計算に入っていなかったのである。
災害拠点病院でさえ、職員の食糧を考えていなかった。しかし、これが日本の医療機関の常態といえよう。
大津波の到来直後に電気、ガスが停止。三陸沿岸部は電話も携帯もメールも通じない情報のない世界と化して、数キロメートル先のことがつかめない不安な状況に入っていった。
耐震補強の遅れた病棟そのものが被災して、職員は家族の安否もわからないまま患者を守り続けた。しかも末期がんの患者、術後・術前の患者もたくさん抱えていたのだった。
いつ緊急援助が来るかわからない。栄養管理室は備蓄食糧を439名×3日分で割って、温かいお粥は患者を優先に配り、職員にはビニール袋で小さなおにぎりと水を配ったという。
小雪がちらつく夕刻の気温は5℃。非常電源用の重油は3万リットルで、タンクの半分しか残ってなかった。エネルギーの枯渇だけは避けたい。そのため給湯器のお湯の温度を下げ、暖房は寒さに耐えられるところまで落とし、あとは患者と職員が一つの布団で山小屋のように体を寄せ合って寝た。
三陸沿岸部では避難所が多発した。急性期病院や特別養護老人ホームまでが避難所にならざるを得なかった。
ぎりぎりのところで生きているお年寄りの施設に、避難民が押し寄せるとどうなるか。避難民も家屋の流失した社会的な弱者に違いない。しかし、特別養護老人ホームで生きる本来の弱者が使うはずのエネルギーをどうしても奪うことになる。
究極の選択迫られる
非常電源を節約する中で、医療用機器で吸痰しなければならない患者、酸素吸入を必要とする患者もいる。吸痰のために電源を使うべきか、あるいはお粥を作るために電源を使用すべきか。エネルギーの限られている施設では究極の選択が迫られた。
阪神淡路大震災との決定的な被害の違いは、東日本大震災ではケガ人が極端に少なかった。生き延びた人々はラッキーで、大津波に巻き込まれた人々はアンラッキー。生か、死か。そういう被害だったのだ。
特別養護老人ホームに命からがら津波を逃れて避難民が押し寄せる。生き延びた人々は避難民であっても、健常者だった。施設の雰囲気がガラリと一変し、脆弱な老人たちは静かに息を引き取っていったという。
「人間ってすごいものですよ。環境の違いで、すぐに死ぬんですよ」
高齢者が衰弱する様子を見た一般社団法人釜石医師会の小泉嘉明会長は、人の生命をそんなふうに語ってくれた。