日本の沿岸を歩く~海幸と人と環境と第64回  伊勢湾の高級「鬼崎のり」を生む最新施設-愛知県・常滑

2022年07月15日グローバルネット2022年7月号

ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)

 

愛知県の取材は伊勢湾最奥にある藤前干潟から始めた(連載3回)。名古屋市港区の藤前活動センターに到着したときは潮が引いていなかったが、周囲に工場などが立ち並んだ一角に残された350haの広大な場所だった。当初のゴミ埋め立て計画が1999年に中止され、貴重な干潟が守られた。ラムサール条約にも登録され、東には稲永ビジターセンターもあるなど、現在に至る多くの人びとの尽力を思った。

●ノリ養殖が90%占める

藤前干潟から伊勢湾沿いに知多半島を南に30kmほど走った。少し先に中部国際空港への進入路がある地点に鬼崎おにざき漁業協同組合(常滑とこなめ市)がある。木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川いびがわ)から栄養を含んだ水が流れ込む豊かな海の幸を享受してきた。愛知県でも有数のノリ産地として知られる。

漁協に着くと対応してもらった参事の平野正樹さんは、開口一番、漁協が整備した自慢の共同乾燥施設について説明した。点在していた個人のノリ加工場を移転・集約するため年に3棟ずつ3年がかりで整備し、6年前に9棟がそろった。組合が使用する8棟と組合員が独自に利用する協業用が1棟だ。

鬼崎漁港(右奥が共同乾燥施設)

漁協がノリ養殖を始めたのは1958年で、海が荒れて漁が少ない冬の収入源として試験に取り組んだのだが、現在ではノリ養殖が売り上げの90%を占める。近年は年間生産量9,000万枚程度、11~15億円の売り上げがある。一方、ガザミ(ワタリガニ)やカレイ、シャコ、クルマエビなどを狙う刺し網漁や小型底引き網漁は少なくなった。アサリも採れなくなった。

ノリ養殖は浅い場所で支柱を立てて網を張る支柱式と、水深が深い場所で行う浮動(浮き流し)式があり、鬼崎漁協では後者が65%を占める。

冬がシーズンのノリ養殖は、気温が下がる10月中旬にノリの胞子を付着させた網を張る。ノリは一ヵ月ほどすると20㎝程度に成長するので網の下を潜る「潜り船」で摘み取る。シーズン中に網を2回張り替える(3期作)。

採取した生ノリは共同乾燥施設に運ばれ、付着している珪藻や異物を取り除き、保管タンクでは高濃度酸素で劣化を防止する。摘採回数や時期によって質が変化するノリを最新鋭の装置で処理。乾ノリを最大1時間9,000枚生産することができる。共同乾燥施設は品質向上とともに省力化も実現した。

平野さんは「昔は手で採取していました。また、手すきで天日干しだったものが、現在ではすべて自動化され楽になりました」と以前の厳しい作業を振り返る。

出来上がった乾ノリは隣の半田市にある愛知県漁連で2週間に1回、指定商による入札が行われる。そして焼きのりや味付けのり、ふりかけ、お茶漬けなどの商品になって消費者に届く。コンビニのおにぎりや恵方巻も身近なノリ商品だ。

●全国的には生産量減少

知多半島のノリは品質に定評があり、「ごはんを巻いて食べるとノリの香りがして、とてもおいしいですよ」と教えてもらった。

ブランド名の「鬼崎のり」の鬼崎について話が及ぶと、昔あった岬の先の浅瀬で船がよく座礁したことに由来するという。鬼崎町の地名はあったが、約70年前の市町村合併で消失。「江戸時代末期に作られた伊能忠敬の地図に出ているし、鬼崎を冠する保育園や小中学校があるので地元の人なら知っているのですが」と平野さん。鬼という字は菓子や酒など食品ではよく見かけるし、「仕事の鬼」「鬼嫁」などインパクトのある言葉。人気アニメ「鬼滅きめつやいば」のことも含めて筆者は「とてもいい名前だと思いますよ」と率直な感想を述べた。

日本全体のノリ生産量は2000年には100億枚あったが、その後不作が続き、今年は60億枚程度。国内需要は85億枚で、不足分は韓国などから輸入しているという。

生産量の減少は生産者の高齢化と減少にもつながっている。「ノリ養殖は経験が必要で一人前になるには10年ほどかかる」(平野さん)という現実もある。

海の環境を尋ねると、水質浄化が進んで栄養塩濃度が低下していることに、平野さんは「海がどえりゃあ、きれいになってしまった」。名古屋弁で危惧を示し、水質環境基準の緩和を行政に要望していると説明した。2005年の中部国際空港開業では、鬼崎の南側の常滑漁業協同組合の漁業者はノリ養殖の漁業権を放棄した。現在、さらに空港沖合でしゅんせつ土による埋め立て拡張計画が決まっており、潮の流れの変化が漁業に影響を与えないか心配しているという。

浅瀬に突き立てられたノリ養殖の支柱

●醸造業や海運業が発展

常滑市は知多半島西岸の中央部に位置し、中部国際空港も含む。江戸時代から陶業が盛んになり、積み出し港の海上交通、海運業も発達した。焼き物の生産が始まったのは平安時代末期ころ。日本六古窯(他は瀬戸、信楽、越前、丹波、備前)の中で最も古く、最大の規模とされる。海上交通で各地に運ばれ、広島県福山市の草戸千軒町くさどせんげんちょう遺跡では13世紀ごろの常滑大甕おおがめが出土している。

市内中心部にある「やきもの散歩道」を歩くと明治の土管や昭和の焼酎瓶で壁を覆った「土管坂」や「登窯」、廻船問屋瀧田家などを見ることができた。

常滑の東隣の半田市にある新美南吉記念館へも足を運んだ。南吉の代表作『ごんぎつね』は鈴木三重吉(広島市出身)創刊の『赤い鳥』で発表したことなどを知っていたので、記念館で詳しい南吉の生涯や作品を知りたいと思った。記念館のそばを歩き、ごんぎつねの舞台となった権現山ごんげんやま矢勝川やかちがわを眺められるベンチに座ると、のどかな里山の風景が眼前に広がった。川の堤には300万本の彼岸花が咲いて赤いじゅうたんのようになるという。

半田市は古くから醸造業が栄え、製品を江戸や大阪に出荷していた。半田運河を使った海上交通の要衝として発展した。MIZKAN MUSEUM(ミツカンミュージアム)は訪れた4月にはコロナ禍で休館中だったが、ミツカングループの創業者初代中野又左衛門が酒粕を原料に粕酢かすずを発明したことを知った。高価な米酢に代わる手軽な酢として江戸で「握りずし(早すし)」のブームを巻き起こしたという。半田運河沿いに見られる醸造蔵の黒板塀が往時を想像させた。酒蔵を生かした「國盛 酒の文化館」に入り、小瓶の2本セットを購入して話した案内の人は、「半田の酒は海運では有利でしたが、鉄道の東海道線が開通すると地理的な優位さがなくなりました」。

知多半島を急ぎ足で回ったのに、豊かな海の幸、多彩なものづくりや食文化があり、人びとはそれらを守り誇りにしていることがしっかり伝わってきた。

再び伊勢湾側に戻って南に進むと野間埼灯台に着いた。ここでは恋人たちが柵に南京錠をかけて、幸運を祈って鐘を鳴らす。夕暮れの灯台は、愛知県出身の夫婦デュオ、チェリッシュが歌う『渚のささやき』の雰囲気に似合っていた。

野間埼灯台

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