日本の沿岸を歩く―海幸と人と環境と第57回 北限のシジミと探検家松浦武四郎の接点―北海道・天塩
2022年01月14日グローバルネット2021年12月号
ジャーナリスト
吉田 光宏(よしだ みつひろ)
日本最北端の宗谷岬から稚内を経て「日本海オロロンライン」を走った。左手にサロベツ原野(利尻礼文サロベツ国立公園)、後ろには利尻島を見ながらの絶景ドライブ。宗谷岬から90kmほどで天塩川河口に着いた。この川で採れる特産のヤマトシジミを取材し、後に江戸末期にこの川を探検した松浦武四郎(1818~88)とのつながりを知ることになる。
●国内4番目の長さ誇る
天塩川は北見山地の天塩岳から北へ流れて日本海に注ぐ長さ全国4位の川。江戸時代に「蝦夷の三絶」と呼ばれ、北海道の三大味覚の一つとされていたヤマトシジミが有名。天塩町中心部に入ると、シジミ漁をしている北るもい漁業協同組合天塩支所を訪ねた。支所長の長尾渉さんは「味と大きさは日本一」と北限のシジミを誇る。天塩支所(正組合員28人)の収益の内訳はサケが6割、カスべ(エイ)とシジミがそれぞれ約1割ずつだという。シジミは2020年度の漁獲が40t弱と最盛期から比べ低迷が続くが、行政の支援を受けながらシジミ資源の回復へ努力を続けている。
長尾さんから説明を聞いた後、天塩川の上流にある幌延町に宿泊し、翌朝午前4時半に河口近くに出掛けた。漁船を探したが視界数十mの濃霧のため確認できず。そこで次にサロベツ湿原にあるパンケ沼(3.55km2)へ。天塩川の河口から10kmほどのところで合流するサロベツ川から上流に上るとサロベツ湿原に至り、その中にある。海から20kmも離れているが汽水なのでヤマトシジミが生息できる。天塩支所は1955年からこの沼でシジミ漁を始め、73年からはサロベツ川や天塩川でも操業するようになった。
早朝のパンケ沼に訪問者はほとんどおらず、穏やかな水面を眺めてシジミの存在を想像した。周囲は緑に包まれ、時折野鳥の声が聞こえた。
長尾さんによると、パンケ沼ではシジミの赤ちゃんである浮遊幼生が着底するだけでなく、サロベツ川や天塩川に流れ出して、そこで育つ。パンケ沼と下流の川で漁獲するジジミは75年にピークの605tを記録したがその後は減少。パンケ沼は2014年から全面禁漁になっている。シジミが減少した原因は農地開発や河川改修などによって沼の底にヘドロがたまり、シジミの生育環境が悪化したことだとわかった。そこで漁協は宍道湖(島根県)で効果が実証された覆砂による底質改善に取り組むことにした。
パンケ沼は国立公園の特別保護区、さらにパンケ沼を含むサロベツ川流域はラムサール条約登録の湿地であったが、北るもい漁協と天塩町は環境省にシジミ資源回復のために底質改善が必要であることを訴え、事業の許可を得ることができた。
覆砂は2008年の0.25haから始まり、以後毎年5ha前後の覆砂を続けて、これまでに約50haに広がった。覆砂した場所ではシルト(粘土より粒が大きく粗い沈泥)と粘土分が合わせて1割以下(覆砂前は7割以上)に改善でき、移植した稚貝も順調に育った。覆砂した場所では試験的に老貝化したシジミを漁獲し、沼底を耕耘して本来ある底質に戻している。長年の取り組みが奏功し、昨年は最大規模の浮遊幼生出現を確認した。
パンケ沼から漁協に戻ると、漁獲したシジミの選別作業を見守った。ドラムが回る中を水と一緒にシジミを流し、サイズごとに分ける。漁獲対象は殻長24mm以上で、それ以下のサイズは漁場に戻す。特大だと32mm以上になる。10年以上かかって成長したシジミは大きくツヤがある。
加工向けやネット販売にも力を入れたいという長尾さんは「漁獲が増えればもっと多くの人びとに食べてもらえるでしょう」と期待する。
●「北海道」名付けた人物
ここで松浦武四郎に話を進める。下調べで漁協支所近くの鏡沼海浜公園など道内数ヵ所に武四郎の銅像があることを初めて知り、さらに情報を集めてみた。
武四郎は生涯で6回の蝦夷地(北海道)調査をした。江戸幕府の命による5回目が1857(安政4) 年の天塩川の探検だ。24日間かけた調査は幕府に提出した報告書のほか、『天塩日誌』に記録をとどめている。アイヌの助けを借りて丸木舟で巡り、地勢や流域の動植物、アイヌの人びとの生活などが克明に記録してある。
『松浦武四郎紀行集下』(吉田武三編)に収められた『天塩日誌』を確認すると、調査初日にサロベツ川口(サルブト河口)で「此邊に蜆、黄蜆も多し」と記述があった。この場所では現在もシジミが採れるという。天塩川には他にマスやイトウなどの魚のほか、チョウザメもたくさんいたことが書かれている。
武四郎は「北海道の名付け親」と呼ばれる重要人物である。天塩川上流でアイヌの長老から聞いた話を元に北海道の名を考えたという。
●多様性重んじた先見性
江戸時代、アイヌの人びとは蝦夷地を領地としていた松前藩や商人ら和人による過酷な差別、搾取に苦しめられていた。和人と異なるアイヌの文化の価値観を認めるべきだとして、武四郎は元凶であるアイヌとの交易を商人に請け負わせた「場所請負制度」の廃止や松前藩から幕府の直轄地にすることなどを訴えるとともに、アイヌ文化の紹介に努めた。時は流れ、2018年に生誕200年を迎えた武四郎には、151冊に上る膨大な記録を残した業績と共に異なる価値観を認め合う姿、庶民感覚の人間愛などに対する評価が高まっている。
戦後間もない1950年にヒットした『イヨマンテの夜』は力強い雄叫びでアイヌへのリスペクトが感じられるが、フィクションの域を出ない。近年は、アイヌの人びとの誇りが尊重される社会の実現を目指す「アイヌ施策推進法」(2019年)や昨年の「民族共生象徴空間」(愛称:ウポポイ)オープンなどの話題が相次ぎ、武四郎の存在感を大きくしている。
武四郎の出身地三重県松阪市にある「松浦武四郎記念館」に詳細を問い合わせてみた。学芸員の山本命さんは、先に蝦夷地を調べた最上徳内や間宮林蔵などの探検を踏まえた調査で、より詳細な蝦夷地の情報をまとめたことを説明し、「アイヌの人びとと親しく接するなど、稀有な広い視野と行動力の持ち主。現在のSDGs(持続可能な開発目標)が求める多様性や共生といった考えを持っていました」と偉大な人物であったことを解説する。そのような多様な価値観をどうして持つことができたのか。山本さんは「生家の前を多くの伊勢参りの旅人が往来するのを見たことや、16歳から全国を訪ねて知識人に会うなどして見聞を広めたからでしょう。知遇を得た吉田松陰から『奇人』と評されたという逸話もあります」。武四郎の人物像にますます関心が湧いてくるではないか。
さて、天塩町の最後の取材場所は、漁協のシジミ直売所。町内のみの限定販売で、開店の午前10時前に10人ほど並んでいた。尋ねると「贈答用です」との返事。もし筆者がこの時、武四郎をもっとよく知っていれば、シジミとの関係について話が弾んでいたはずだ。